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追悼:内田正人~音楽人生の50年間をドゥワップひとすじで通したキングトーンズのリードテナー

2019.02.18

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4人組コーラスグループ「ザ・キングトーンズ」のリーダーで、リードテナー担当の内田正人さんが15日に亡くなったことが17日、スポーツ報知の取材で明らかになった。享年82。
2004年に脳梗塞で倒れて1年間のリハビリを余儀なくされたが、その1年後にはフジロックフェスティバルでステージに復帰していた。
そして同フェスに3年連続で出演したが、再び体調を崩して約10年前から療養中だった。


内田正人は1枚のレコード、プラターズの「オンリー・ユー(Only You)」のレコードと出会ったことが、約50年続いた音楽人生の基礎になったという。




1958年の夏、日大法学部の学生だった内田はラジオ東京のコンテスト番組「青春ジャズ大学」に出場し、審査員だったジャズ・シンガーの笈田敏夫から「黒人の音楽が似合う」という的確な助言を受けた。

で、蒲田の駅前のレコード屋でプラターズを買ったんです。「オンリー・ユー」の入ってるやつ。それで「こりゃ、すげえ」ってことで、早速メンバーを探したわけですね。
日本人じゃなかなか歌えないけど、僕には歌えるっていう自信があって、三人見つけて練習して。プラターズの完全なコピーでしたね。そのころは、まずあちらのものをどれだけコピーできるかが勝負でしたからね。


やがてプラターズと同じように女性ヴォーカルを加えた5人で、ザ・ファイブ・トーンズとして米軍キャンプでの音楽活動をスタートした。

最初は江利チエミとか雪村いづみとか、ウィリー沖山なんて人もやってましたね。キャンプの中はいつも真剣勝負でちょっとでも間違うとすぐブーイング。
だから本当に気が抜けなかった。一回だけ、ウチも降ろされてしばらくホサれたことがあったけど、いろんな意味で勉強になりましたね。


仕事をホサれていた期間に内田たちは映画『女はそれを我慢できない』を観に行って、出演していたプラターズのシーンを繰り返し見て振り付けなどのほかを、ちょっとした動きの中にある黒人らしさを勉強したという。



しかし1960年2月1日に男性4人になったことから、名前もキングトーンズと改めて米軍キャンプが中心の活動を始めていく。

彼らの代表曲となった「グッド・ナイト・ベイビー」は、ポリドールの社員だった松村孝司がどうしても日本語のオリジナルでR&Bを作ってみたいと思って、それを歌えるアーティストを探していて白羽の矢が立ったものだった。

難しい曲でしたけどね。「涙こらえて」のメロディーの部分は演歌でしょ。あれはどうすれば演歌じゃなく歌えるかって。
そこでファルセットが出てきたんですね。
販売会議では売れるという人は誰もいなかったらしいですね。半年ぐらい売れなかったんです。
ところがそのころ米軍キャンプではナンバーワンだったので、米軍兵がレコード買ってくれて、本国に持ち帰ったらしくビルボード誌に載ったんですね。




1968年5月に発売された「グッド・ナイト・ベイビー」は全く売れなかったが、しばらくしてから仙台の学生たちの間で火がついているという情報がレコード会社に入ってきた。
そこで小型乗用車1台にメンバー4人とプロデューサーが乗ってキャンペーンに出かけて、レコード店の前で歌ったりして宣伝に務めた結果、年末から翌年の春にかけてじわじわとヒットを記録したのである。

同じ頃にアメリカでもグラモフォンからシングル盤を出さないかという話があって、実際にリリースされると全米R&B部門で48位にランクされた。
基本的に黒人音楽しかランクされない「Rhythm & Blues」のカテゴリで、日本のアーティストがチャート・インしたのは、1963年に大ヒットした坂本九「SUKIYAKI(スキヤキ)」に続く出来事だった。

グッド・ナイト・ベイビー


キングトーンズはその年の紅白歌合戦にも選ばれたので、一般への知名度も広がってテレビ出演などの機会が増えていった。

ちょうどキャンプが下火になった頃だったんで、ウチはうまく「グッド・ナイト・ベイビー」のヒットで芸能界の方に移れたんです。レイ・チャールズやオーティス・レディングが出てきて、R&Bって言葉も広まり出した時期でもありましたしね。


カヴァー曲の「暗い港のブルース」が1972年にヒットし、キングトーンズはライブを中心に安定した活動を継続していった。

1980年にはニューヨークのビーコン・シアターで開催された、「ニューヨーク・ロイヤル・ドゥワップ・ショー」にも出演を果たした。
シングルを100万枚以上売った記録を持っていて、それなりの審査に通らないと出演できない規定だったがオファーが来たのだ。

「東洋で二十年、ドゥワップをやって…」って紹介があったらものすごくウケちゃって、本場で得た刺激はほんとにかけがえのないものでしたね。


キングトーンズは大滝詠一や山下達郎、あるいはラッツ&スターといったポップス系のアーティストによって、ドゥワップひとすじでやってきたことへの評価を得たことから、若い音楽ファンの間でもその存在を知られるようになっていった。

とくに高野寛が1995年に提供した「夢の中で会えるでしょう」は、後期の代表作として愛聴されてきた作品だ。
しかも両者が共演した貴重な映像が残されている。

ドゥワップひとすじで通した内田の功績に、あらためて追悼の意を捧げたい。




(注)内田正人氏の発言はシンコーミュージック刊「日本のポピュラー史を語る 時代を映した51人の証言」(村田 久夫, 小島 智 編集)からの引用です。

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