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内田裕也がカヴァーしたレイ・チャールズの「ワット・アイ・セイ」~精神はロックそのものだが意外に穏やかな歌声

2024.03.15

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これは今年の3月17日に亡くなった内田裕也氏のツイッターに書いてあった自己紹介である。(2019年11月19日現在)

My name is Yuya Uchida.
私は5月のハドソン川をスーツを着て泳ぎ、12月のパリ中とループル美術館の中を走り、脚本・主演した映画はニューヨーク近代美術館で上映され、ハワイノースショアの上空4000メートルからスカイダイビングをして地上に降り立ったクレイジーで穏やかなロックンローラーです!ヨロシク!


ところで、ここに書かれている5月のハドソン川をスーツを着て泳いだのは1985年のことだった。
PARCOがつくったこのCMは、オンエアされた直後から評判になった。


CMの原案は内田裕也自身が考えて、クリエイターは井上嗣也、カメラマンは加納典明でつくられた。
仲畑貴志のコピーは、「昨日は、何時間生きていましたか。」というものだった。
撮影した加納が、後にこう振り返っている。

ニューヨークのハドソン川を裕也さんにスーツ姿のままで泳いでもらったんです。あの撮影は、当時みんな「クレイジー」だって言っていましたが、才能あふれるコピーライターやアートディレクターなんか第一線を牽引していた優秀なスタッフで、最高のものをつくりました。非常に大掛かりな撮影で、とにかく思い出のある撮影でした。


1963年3月に「ひとりぼっちのジョニー」で東芝レコードからデビューした内田裕也は、2年で数枚のシングル盤を出したが、いずれもヒットには結びつかなかった。

時代はロカビリーブームの後で、まだGSのブームが起こる前夜である。ようやくエレキ・ブームの兆しが見え始めていた。


内田裕也は大阪のジャズ喫茶「ナンバ一番」で唄うようになり、やがて東京に出て都内のジャズ喫茶を中心に活躍していた。
そして寺内タケシが率いるブルージーンズのヴォーカリストとして、激しいステージ・アクションやトークで頭角を表していく。

1963年の夏にエレキギターを主体にしたバンドになったブルージーンズは、寺内タケシと加瀬邦彦のギタリスト二人がスター的な存在だった。

尾藤イサオもまた同じ頃に、ジャッキー吉川とブルーコメッツのヴォーカルで、バンドの一員のように行動を共にしていた。
彼らの真骨頂はジャズ喫茶におけるライブで、昼と夜を合わせると10ステージも繰り返されたのだが、若さとエネルギーで乗り切っていた。

内田裕也と尾藤イサオは司会ぶりの面白さも共通していて、それはジャズ喫茶のせまい空間だったからこそ効果があった。
そんなふたりが1965年に吹き込んだアルバム『ロック・サーフィン・ホット・ロッド』は、ブルージーンズとブルーコメッツの演奏で当時のジャズ喫茶の気分が堪能できる。



その1曲目に入っていたのがレイ・チャールズの代表作で、1959年のヒット曲「ワット・アイ・セイ」だった。

レイは1950年代の前半からR&Bチャートで多くのヒット曲を放っていたが、この曲を全米ポップチャートで最高6位(R&Bチャートでは1位)に送り込んだ。
黒人音楽の世界で確固たる地位を築いてきたレイを、主流のポップ・ミュージックでも白人の聴衆がこのあたりから歓迎したのだ。

ラテン音楽のルンバやR&Bの要素が混じり合っている前半、リスナーはまずインストゥルメンタルで気分が高揚していく。
さらにレイのヴォーカルが入ってくると、ゴスペルの影響によるコール・アンド・レスポンスが繰り返されるので、リスナーも一緒になって声を出して盛り上がった。

しかし曲の中盤にセックスをほのめかすパートが出てくることで、熱狂的に受け入れられた反面、場所によっては放送禁止になるなどの反発もあった。
それでもこの曲がヒットしたことで、レイ・チャールズは初のゴールド・ディスクを獲得する。


これを日本でカヴァーした内田裕也と尾藤イサオは、勢いのあるエレキバンドをバックにしてセンスもいい作品を仕上げた。
ただしエネルギッシュではあっても声がきれいなせいか、内田裕也のヴォーカルからはワイルドさというよりも、どことなく品が良い感じが伝わってくる。

復刻されたCDを聴き直してみても、そんなところが意外な特徴になっているということに気づかせられた。

そうしたこともあってなのか、それ以降の内田裕也はアーティストを発掘して育てるプロデューサーの仕事に軸足を移し、それと同時に冒頭に紹介したようにクリエーターとしての資質に磨きをかけて、役者としての活躍が目立つようになる。

沢田研二の「君をのせて」という歌から生まれたテレビドラマ『哀しきチェイサー』で、二人が共演したのは1978年の晩秋のことだった。

<参照コラム:沢田研二の「君をのせて」から生まれた伝説のドラマ『哀しきチェイサー』>

(注)加納典明氏の発言は「写真は時代の証明 時代の顔を撮り続けたい ── 写真家・加納典明が語る」(THE PAGE)からの引用です。


内田裕也、尾藤イサオ 『ロック・サーフィン・ホット・ロッド+レッツ・ゴー・モンキー』
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