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追悼・ジャニー喜多川~初代のジャニーズに託したエンターテインメントにかける夢

2019.07.12

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1962に年に設立された「ジャニーズ事務所」は、 代々木にあった米軍キャンプで個人的に指導していた少年野球チーム「ジャニーズ」のなかから、タレント志望の少年たちを集めて歌って踊れるグループを誕生させようとしたのが始まりだ。

朝鮮戦争に徴兵されて従軍した日系アメリカ人のジャニー喜多川は、ロサンゼルスに生まれ育ったが、除隊後も日本に残って駐日アメリカ大使館で働いていた。

彼は朝鮮で戦災孤児に英語を教える仕事をした経験から、当時最も人気のあったスポーツの野球を通じて、日本の少年たちにも夢を持ってもらおうと考えた。
そこで米軍キャンプのワシントン・ハイツ(現在の代々木公園の一画)で少年たちにグローブやバットなどを提供し、一緒に野球を楽しむようになったのだった。

たまたま雨が降って野球ができなかった日、ジャニー喜多川はいつも自宅に遊びに来ていた少年たちの何人かを連れて、評判になっていたアメリカ映画を観に行った。
そして『ウエスト・サイド物語』にすっかり感動して、その後もなんどか少年たちと映画館に通ったという。



そんなある日の帰り道、4人の少年から「自分たちも映画のようなミュージカルをやってみたい」と気持ちを打ち明けられた。
それならばと4人をジャニーズと名付けて、ダンスと歌のレッスンの日々が始まった。

ジャニー喜多川はロサンゼルスに住んでハイスクールに通っていた頃に、劇場でアルバイトをしたことがあったので、本場のショービジネスの世界を体験していた。

そうした日々の中で、基本のステップに忠実に踊って歌っていたベテランたちのパフォーマンスに感銘を受けたことがあった。
いつも元気良く溌剌として、客席を沸かせて全員50代のグループを舞台袖から見ていて、ジャニー喜多川は「舞台に立つからには年齢に関係なく、徹底的に訓練された演技と鍛えた芸を、惜しげもなく披露すべきなのだ」と学んだのである。

踊る少年たちとしてジャニーズがテレビに初出演したのは、1962年8月4日に放送されたNHKの『夢であいましょう』だ。
<参照コラム>無名の少年たちだったジャニーズを特訓してレギュラーに抜擢した伝説のディレクター末盛憲彦

それから2年が経過して、ジャニーズは1964年12月に「若い涙」でレコード・デビューする。
当時の音楽雑誌『ミュージック・ライフ』には、ジャニーズを紹介する記事が載った。

そこには、「あくまでも澄みわたった、悲しいまでに青い晩秋の空のように、純粋で清潔な四人のカッコいい男の子たち」というコンセプトが掲載された。
その後の日本における男性グループ・アイドルの基本となっていく。




やがてジャニーズは1962年8月にNHKテレビの人気バラエティ番組『夢であいましょう』に出演し、真面目さと熱意が認められたことから、レギュラー出演者になっていった。
<参照コラム>無名の少年たちだったジャニーズを特訓してレギュラーに抜擢した伝説のディレクター末盛憲彦



それからちょうど2年後の1964年8月、踊りも歌も演技もできるグループとなったジャニーズは、“今月のうた”をメインで歌うチャンスを得た。
それがレコード・デビュー曲となる「若い涙」だった。

「ミュージカルをやりたい」という夢も、1965年から翌66年にかけて石原慎太郎作の『焔のカーブ』と、同じく石原慎太郎作・演出の『宝島に挑んで実現していく。

とくに日本発で世界を目指すことを目標に制作された『宝島』では、「若い涙」を作曲した中村八大が音楽監督を務めた。

これが日本の男性グループ・アイドルの原点で、ジャニー喜多川が設立したジャニーズ事務所が育てたアイドルたちは、ここから半世紀以上の長い歴史を刻むなかで、大きな花をいくつも咲かせていくことになる。



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