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月刊キヨシ

「愛のさざなみ」は、なぜロス・レコーディングされたか?~名ドラマー、ハル・ブレイン起用で島倉千代子をよみがえらせた浜口庫之助

2016.11.29

オールマイティの才能

ステージに立ち、曲を作り、そして歌詞を書いた。
遊び心にとんだ明るい人柄からハマクラさんの愛称で親しまれ、ヒット・メイカーとして数々の伝説を残した浜口庫之助(1917~1990)は、来年生誕百年を迎える。

生まれは神戸。父親は貿易商だった。
著書によれば、洋館の家にはガス燈がともり、裏庭にはテニスコートがあった。両親はクリスチャンで、日曜日には教会に行き、姉のピアノで讃美歌を唄った。音楽好きでハイカラな一家に育ち、5歳にして譜面が読めた。
小学校2年の時に一家で上京。旧制一高を目指すが、受験に失敗、親に内緒で音楽の道に走る。
1936年、初めて就いた仕事は、新宿のダンスホールのバンド・ボーイ。煙草の使い走りもいとわなかった。
流行り始めていたラテンに影響を受け ラテン・バンド「浜口庫之助とアフロクバーナ」を結成。マラカスを振りながら自らステージに立つ。
初舞台は、「NHK紅白歌合戦」。それも、1953年から3回連続出演を数えた。 「国境の南」、「セントルイス・ブルース・マンボ」、「インディアン・ラブコール」 。すべて英語でリード・ヴォーカルをとった。


ヒット・メイカーへの道

歌手としてようやく暮らしも立ち始めた頃、「英語の歌ばかり歌ってきた自分に空しさを覚えて」一念発起。作詞・作曲家を志して転身をはかる。
「ヒット曲には時代背景がある。ヒット曲は音楽が縦糸、時代感覚は横糸になって織り上げられたもの」という言葉があるように、時代を見る目が冴えていた。

1959年の作詞デビュー作は、「僕は泣いちっち」。
高度成長のただ中。めまぐるしく変わる世相のなか、今や東京に逃げられて泣くのは男、というおかしみがうけて、守屋浩の高音の魅力でブレイク、「泣いチッチ」は、流行り言葉にもなった。



さらには、1960年、安保の年にぶつけた「有難や節」。
「デモはデモでもあの娘のデモは~」と時代を読み込んだ。
深読みすれば、この曲は、やけのやんぱち、ハマクラさんの昭和の「ええじゃないか節」(註)だったのではないかという説も成り立つ。
(註・慶応三年、幕末の世直しを歌う民衆運動のこと)



そして、1966年には、マイク真木の「バラが咲いた」。

「朝起きて、よい気分で庭を眺めていたら、緑のなかに赤いバラが一輪フワリと咲いているのが見えた。
あ、バラが咲いたなと思って、そばにあったギターでつまびいたら、そのまま歌になった」


無理して作った歌に感激はない。手垢のついた言葉はもはや人の心をうたない、いち早くそれに気づいていた。
「バラが咲いた」はフォークではないという奇妙なやりとりもあったが、浜口庫之助こそがシンガー・ソングライターのはしりだったという説もうなずけるところである。



「出会いから歌が生まれる。だが、つくる側に感動がなければいい歌にはならない」浜口には信念があった。
石原裕次郎との出会いは、1967年。たちまち気脈を通じあい、「粋な別れと」と「夜霧よ今夜も有難う」の2曲をいっぺんに書きあげ、数ある裕次郎ソングのなかでも、ひときわ印象深い名曲となった。



「愛のさざなみ」

島倉千代子との出会いは1968年。ヒットに恵まれずにいた島倉のために浜口は救いの手を差し伸べる。作詞になかにし礼を起用、誕生したのが「愛のさざなみ」だった。

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「この世の花」でデビュ、一世を風靡した島倉だったが、私生活に恵まれず、イメージも翳りがち。1968年、歌手生活15周年をひかえ、島倉は正念場にたたされていた。

「この世に神様が本当にいるなら、優しく抱かれて私は死にたい」

イメージを破る大胆な歌詞に浜口がポップス調のメロディをつけた「愛のさざなみ」がLAレコーディングであったことは、広く知られていた。
資料にも「浜口庫之助の助言により、バックの音は海外でレコーディングされた」とある。68年当時、日本のミュージシャン、まして歌謡曲の歌い手の国外レコーディングなど前例のないことだった。
浜口の著書、「ハマクラの音楽いろいろ」には、島倉千代子が組んだミュージシャンとは、超一流のバック・バンド「レッキング・クルー」である可能性が高いと、推測形で書かれていたが、あらためて、「愛のさざなみ」のジャケットのライナー・ノーツにあたってみれば、まぎれもなく、「Dr.Hal・Blain」と明記されている。

ハル・ブレインといえば、セッション・ドラマーにして、スタジオ・ミュージシャン。
60年代初頭に、フィル・スペクターのセッション・メンバーとなり、ロック、ポップスの膨大なレコーディングで活躍した天才ドラマー。ロック史上、最も多作とされる名ドラマーである。

エルビス・プレスリー、「好きにならずにいられない」
ロネッツ、「ビー・マイ・ベイビー」
カスケーズ「悲しき雨音」
ビーチ・ボーイズ「サーフィンUSA」
ハーブ・アルパート「蜜の味」
ディーン・マーチン「誰かが誰かを愛してる」
バーズ「ミスター・タンブリングマン」
フランク・シナトラ「夜のストレンジャー」
ママス&パパス「夢のカリフォルニア」
サイモン&ガーファンクル「ボクサー」
スコット・マッケンジー「花のサンフランシスコ」
カーペンターズ「クロス・トゥ・ユー」
パートリッジ・ファミリー「悲しき初恋」

そうそうたる顔ぶれが並ぶ。

「縮緬ビブラート」と呼ばれた島倉独時の節回しに、寄せては返すハル・ブレインのシャッフル・ビートがからむ名作はこうして世に出たのである。この曲は国内ランキングでも、2週連続で20位にランクされ、100万枚のヒットとなり、さらには第19回日本レコード大賞に輝いている。
たった一曲で、歌手ひとりを蘇らせることはできるのか?浜口の挑戦は見事実を結んだのである。

この世に神様が 本当にいるなら
あなたに抱かれて 私は死にたい
ああ湖に 小舟がただひとつ
やさしくやさしく くちづけしてね
くり返すくり返す さざ波のように




勲章受章を断った人生

1981年、浜口は癌に倒れ、闘病生活が続くなか、1990年に、叙勲(勲四等)の話が持ち上がる。

「文化庁から電話で打診があった、平成2年の夏のことだ。家内も友人たちも受けるようにすすめたが、ぼくはやっぱり断ることにした」
「『芸術家は肩書を持ったときに死ぬ』これが僕の信念だ」
「人生のラッパ手として、長い間吹き続けてきたのは、金が欲しいからでも、権力を得たいからでもない。ここで勲章を受けたりしたら、いままで僕がやって来たことは何だったのか、ということになる」
(「ハマクラの音楽いろいろ」より)


そして同じ年の12月、叙勲を断った男は、1981年、享年73年の生涯を閉じている。


『浜口庫之助メモリアルコレクション100』
キングレコード


≪参考図書≫
「ハマクラの音楽いろいろ」
浜口庫之助(著)
発行・立東舎
発売・リットーミュージック

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