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バングラデシュ・コンサートを成功に導いたミュージシャンたちの想い

2016.11.14

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1971年6月末。ロサンゼルス。
ジョージ・ハリスンは、シタールの師匠にして互いに良き理解者だったラヴィ・シャンカールから、バングラデシュ(当時はまだ東パキスタン)の現状を聞かされた。

インドを間に挟んで東と西に分かれていたパキスタンでは、言語の違いや西側に偏った政策などから対立が激化、さらにはサイクロンによる被害でコレラや飢餓が蔓延し、多くの難民を生み出していた。

バングラデシュのために何かできることはないかと考えた2人は、寄付金を集めるための慈善コンサートを企画する。
当時はまだ大規模な慈善コンサートの前例がなく、ノーギャラでどれだけのミュージシャンが集まるか見当もつかなかったが、ジョージは手当たり次第に知り合いのミュージシャンへ電話をかけ続けた。

すると、旧仲のリンゴ・スターをはじめとして、レオン・ラッセル、ビリー・プレストン、ジョージがプロデュースをしていたバッドフィンガーなど、多くのミュージシャンが企画に賛同してくれた。
デレク・アンド・ドミノスを解散したばかりのエリック・クラプトンは、ドラッグ漬けの不摂生な日々を送っていたが、親友ジョージの説得によって参加を表明してくれた。
ボブ・ディランも、ジョージからの「風に吹かれて」をやってほしいというお願いには難色を示したものの、参加を承諾してくれた。

世界初となる大規模な慈善コンサートは世間の関心も高く、4万枚のチケットはすぐに完売となる。
しかし、その裏では様々な問題を抱えていた。
クラプトンは四六時中ぐったりして前日のリハーサルにも顔を出さず、ディランはリハーサルに来たものの、「ここは僕には似合わない、こんなところじゃやれないよ」と辞退をほのめかす。
1969年のワイト島フェスティバルを最後にディランは2年間もライブから遠ざかっており、一説ではステージ恐怖症の噂もささやかれていた。
ステージに立つ保証のない2人のため、ジョージはクラプトンの代役としてジェシー・エド・デイヴィスを、ディランの代役としてバッドフィンガーを用意しておくことにした。

1971年8月1日。マジソン・スクエア・ガーデン。
主催者の1人であるラヴィ・シャンカールがオープニングを務めると盛大な拍手が送られ、コンサートは順調に進行していく。

不安要素の1つであったクラプトンは状態こそ良くなかったものの、親友の想いに応えようとジョージとのギター・バトルでそのときできるであろう最高のパフォーマンスを魅せてくれた。



ショウも後半に入り、ジョージとバッドフィンガーのピート・ハムの2人による「ヒア・カムズ・ザ・サン」が終わろうという頃、ジョージの脳裏にもう1つの不安がよぎった。
進行表には、このあと「ボブ?」と書かれている。
次はディランが登場する予定なのだが、本当に出てくれるのか直前になってもジョージは確信が持てなかった。

果たしてディランは来ているのかと周りを確認すると、ステージ脇でハーモニカをつけてギターを持っているディランの姿が目に止まった。
それを見たジョージは咄嗟に声を出した。

「僕ら、そしてみんなの友達を紹介しよう。ミスター・ボブ・ディラン!」

ジョージ・ハリスンがギターを、レオン・ラッセルがベースを、リンゴ・スターがタンバリンという編成でディランは歌い、難色を示していた「風に吹かれて」までも歌ってくれた。


その後はビートルズ最後の全米ナンバーワン・シングルにしてジョージの作品である「サムシング」、そしてこのコンサートのために書かれた「バングレ・デシュ」という流れで幕を閉じる。

準備期間はわずか1ヶ月でリハーサルさえまともにできず、どう進行するかも分からない綱渡りのコンサートだったが、蓋を開けてみれば全てが上手くいった。
ジョージは後日インタビューでこの日のことをこう話している。

「あのコンサートに満ちていた空気は、僕らよりも大きなものだった」


ラヴィ・シャンカールとバングラデシュのために何か出来ることをしたいというジョージの想い、そしてその想いに応えたいという多くの人たちの支えがあったからこそ、世界初の慈善コンサートは成功したのだろう。

年末にはライヴ・アルバム『The Concert for Bangla Desh』がリリースされ、翌1972年にグラミー賞の年間最優秀アルバム賞を獲得した。

慈善コンサートは世間、そしてミュージシャンに浸透し、バングラデシュ・コンサートに感銘を受けた若者、ボブ・ゲルドフはのちに20世紀最大の慈善コンサート、ライヴエイドを制作することとなる。


(このコラムは2014年11月11日に公開されたものです)

George Harrison and friends『Concert for Bangladesh』
Capitol


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