「本物の音楽」が持つ“繋がり”や“物語”を毎日コラム配信

TAP the POP

TAP the LIVE

狂騒のワイト島に静寂をもたらしたレナード・コーエン

2023.11.07

Pocket
LINEで送る

グレートブリテン島の南部に隣接するようにして浮かぶワイト島。
種子島ほどの大きさで人口15万人にも満たない自然豊かなこの島は、古くから避暑地としてイギリス人に親しまれてきた。
しかし、今日では毎年催されるワイト島フェスティバルで知られている。

はじめて催されたのは1968年。
出演したバンドのほとんどはイギリスのバンドだったが、ヘッドライナーとしてヒッピー・ムーブメントを代表するジェファソン・エアプレインがアメリカ西海岸から海を渡って参加した。
イギリスにおけるロック・フェスの先駆けともいえるこのイベントには8月31日と9月1日の2日間でおよそ15000人が来場し、翌年の第2回ではバイク事故以降ファンの前から姿を消していたボブ・ディランがステージに上がったことで大きな話題となった。

そして3回目となる1970年のワイト島フェスティバルは良くも悪くも歴史に名を残すイベントとして語り継がれることとなる。
前年に40万人以上を集めたウッドストック・フェスティバルを下地に世界最大級の音楽の祭典を目指して規模を大幅に拡大し、開催期間を5日間に延ばして出演アーティストを50組以上に増やし、ジミ・ヘンドリックスやドアーズなどアメリカからも数多くのアーティストが参加することとなった。

ウッドストック・フェスティバルは20万人以上が入場料を払わなかったが、残り18万人のチケット代と映画の成功によって採算をとっていた。
それを見習ってワイト島フェスティバルも映画の撮影スタッフを導入し、運営側は「採算がとれた時点でフリー・コンサートにする」と宣言する。

しかし、フェスの会場にはお金を払わずに観れることを期待した若者が大勢集まり、一部がフェンスを乗り越えて会場に入ろうという暴挙に出た。
運営側がこれに対抗して警備を強化したことにより両者の対立は激化、集まった若者の一部は暴徒と化していった。
最終的には運営側が折れて採算のとれないまま全ての門を解放、フェスは商業的にみれば完全な失敗に終わり、翌年から30年以上に渡ってワイト島でフェスが催されることはなくなった。

それゆえにこのフェスティバルはウッドストック・フェスティバルとは対照的に若者たちの暴走や商業的失敗などにスポットが集まりがちだが、ドアーズやマイルス・デイビス、ELP、ザ・フーなど数多くのアーティストが素晴らしい演奏を残している。
その中でも伝説として語り継がれているのがレナード・コーエンだ。

レナードの前にステージに上がっていたのはジミ・ヘンドリックスだった。
ジミのエキサイティングな演奏とパフォーマンスに感化された観客の一部はステージに火を放つなど過激な行動を起こし始め、スタッフや他の出演者は身の危険を感じるほどの大きな不安を覚えた。

午前2時、混沌とした60万人の観客の前に現れたレナード・コーエンは、幼い頃に父に連れられて見たサーカスの話を始めた。
パフォーマーが「みんなの居場所が分かるようマッチを点けてほしい」と呼びかけると、真っ暗な観客席にたくさんのマッチが灯るのが好きだったという。
そして聴衆に向かって「みなさん全員、マッチをつけてもらえますか。お互いがどこにいるか分かるように」と呼びかけた。

その一部始終を舞台袖でクリス・クリストファーソンやジョーン・バエズらとともに見ていた音楽プロデューサーのボブ・ジョンストンはこう振り返っている。

聴衆はヘンドリックスのステージに火をつけたあと、雨の中にたたずんでいた。誰も何日も眠っていなかった。
そのとき、レナードが登場し、“電線の上 の・・・ 一羽の・・・ 鳥のように”と言葉をかみしめるようにゆっくりと歌い始めた。
聴衆の心はコーエンの心とひとつになり、コーエンの言葉が彼らの心に一語一語沁み渡っていくようだった。
私はそれまでそのような働きをする歌を聞いたことがなかった。それがコンサートを、フェスティバル全体を、救ったのだ
(『ライヴ・アット・アイル・オブ・ワイト1970』ライナーノートより)




レナード・コーエン『LIVE AT THE ISLE OF WIGHT 1970』[DVD]
SMJ



Pocket
LINEで送る

あなたにおすすめ

関連するコラム

[TAP the LIVE]の最新コラム

SNSでも配信中

Pagetop ↑

トップページへ