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伝説となった紅白歌合戦の「夜へ急ぐ人」~ちあきなおみとジャニス・ジョプリンの狂気

2019.12.31

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まったく面識もなければ縁もなかったちあきなおみから、友川カズキが楽曲を依頼されたのは突然のことだった。
それが1977年のことで、友川はそのとき大阪にいた。

「ちあきさん、その頃ステージでジャニスの曲も歌ってたのよ。
だから、曲は意外とあっさり作れたの。
ジャニスに曲書いてるような気分だったからね」
(『友川カズキ独白録 生きてるって言ってみろ』より)


ちあきなおみはジャジーなポップスを歌うシンガーとして「雨にぬれた慕情」で1969年にデビューしたが、「四つのお願い」がヒットした翌年に早くもNHK紅白歌合戦への出場を果たしている。
1972年には「喝采」がレコード大賞に輝き、「劇場」「夜間飛行」といったヒット曲が続いて、紅白の常連になった。

しかし1975年に27歳になったちあきなおみは意を決して、13歳の時から15年間も所属した三芳プロを離れた。
それを境にして、音楽活動における表現の幅を広げていくためだった。
芸能人ではなく、アーティストのように音楽に集中できる活動を望んだのである。

その年は船村徹とのコンビで演歌に挑戦した「さだめ川」がヒットし、11月には意欲的なアルバム『戦後の光と影~ちあきなおみ 瓦礫の中から』を発表した。

これは戦後という時代の光と影を持つ「星の流れに」や「カスバの女」という名曲たちを、ナツメロとして懐かしむのではなく、日本のスタンダード・ソングとしてカヴァーして新たな生命を吹き込むという、現在にも通じている新しい試みの出発点になった。

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その後はヒット曲を追い求めるレコード会社が推す演歌路線を拒否し、ニューミュージックの新たな旗手として注目を集めていた中島みゆきに、書き下ろしの楽曲を依頼して1977年4月にはシングル盤「ルージュ」を発売した。

テレビの深夜番組『11PM』を自宅で観ていて、さほど有名ではなかった友川カズキというシンガー・ソングライターに出会ったのは、「ルージュ」を出した後だった。

ちあきなおみは友川が番組内で歌った「生きてるって言ってみろ」の歌詞と、パフォーマンスの両方に魂を激しく揺さぶられたという。

ビッショリ汚れた手拭いを
腰にゆわえてトボトボと
死人でもあるまいに
自分の家の前で立ち止まり
覚悟を決めてドアを押す
地獄でもあるまいに
生きてるって言ってみろ
生きてるって言ってみろ
生きてるって言ってみろ



1971年の中津川フォーク・ジャンボリーに飛び入りで出演した友川は秋田出身のシンガーで、「上京の状況」と「生きていると言ってみろ」の2枚のシングル盤を出した後に、ようやくファースト・アルバム『やっと一枚目』を1975年にリリースしていた。

プロデューサーだった夫の郷鍈治は翌日の朝から放送局に連絡をとって、その日のうちに事務所へ友川を招いた。
そして、ちあきとともに楽曲を書き下ろしで提供してほしいと依頼した。

まだ他人に楽曲を提供したことがなかった友川は、どんな曲を書けばいいのかという手がかりを求めて、新宿「ルイード」で行われるちあきなおみのライブに足を運ぶことにした。
そこでジャニス・ジョプリンの曲を聴いて、友川は圧倒されて泣いてしまったという。

「もう鳥肌がたつほど感動しました。私も高校時代からジャニスが大好きでしたから、ちあきさんのジャニスを唄うのを見た時、『あー、タダの狂気じゃないな』って感じました」


ジャニス・ジョプリンとちあきなおみに共通するもの、それは人の心の奥に隠されている狂気だったのかもしれない。
そして友川は「生きてるって言ってみろ」もまた、自分自身の中にある狂気と怒りから生まれた作品であることに気づいた。

それが評価されて楽曲を頼まれた自分に求められているのは、ジャニスの曲を歌っているときに見せた狂気を引き出す曲を書くことだと、友川はそう感じ取ったのだ。

こうして生まれた「夜へ急ぐ人」は1977年の9月1日、シングル盤として発売された。

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その狂気を多くの人が目の当たりにしたのはその年の大晦日、第28回NHK紅白歌合戦でのことだった。
演歌の「酒場川」をしっとりと歌っていた前年とは打って変わって、8年連続での出場となったこの日のちあきは、黒尽くめの衣装で髪を振り乱して、「おいでおいで」とカメラに向けて、挑発的に手招きをするパフォーマンスを披露した。

あたしの心の深い闇の中から
おいで おいで
おいでをする人 あんた誰


ちあきなおみの狂気をはらんだ絶唱は、お祭りムードで和やかだった会場の空気を一変させた。
その模様は日本中の茶の間にも等しく伝わった。

歌が終わるや否や、白組司会のNHKアナウンサー山川静夫の口からこぼれたのは、「なんとも気持ちの悪い歌ですねえ」という、台本に書いていない本音のコメントだった。

その軽口によって会場には笑いが起こったので、何ごともなかったようにいつも通りの紅白が進んでいった。

だが、そのパフォーマンスが深く心に刻まれた人も多かった。
はからずもその夜の熱唱で、ちあきなおみが明らかにしたのは、「普通の歌手とは違う」ということだった。

「夜へ急ぐ人」(『ビッグショー~ちあきなおみ・おんな 夜の中でひとり』より)



その翌年、プロデューサーでもあった俳優の郷鍈治と結婚すると、ちあきなおみは芸能活動をしばらく休業することにした。
当然だが紅白の舞台からも降りて、それから10年間は出場する機会がなくなった。

復帰を果たしたのは1988年のことで、シャンソンやジャズ、ポルトガルのファド、日本のスタンダード、そして自分のオリジナル曲と、心からうたいたい歌をストイックに追求していく、唯一無二のシンガーとなって戻ってきたのときであった。


(注)本コラムは2015年12月29日に公開されました。

参考文献:
『友川カズキ独白録 生きてるって言ってみろ』友川カズキ著(白水社)
『ちあきなおみ 喝采、蘇る。』石田伸也著(徳間書店)
『団塊パンチ (3) 』(飛鳥新社)
『紅白歌合戦と日本人』太田省一著(筑摩書房)


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