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音楽に対する純粋な想いとレコード会社の支えによって生まれた『フランプトン・カムズ・アライヴ』

2016.01.26

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1975年の夏、ライヴ・アルバムのミックス作業を終わらせたピーター・フランプトンは、出来上がった音源を所属するA&Mレコードの創始者、ジェリー・モスに聴かせた。

「残りの曲はどこだ? 『ウィンド・オブ・チェンジ』は? 『ショウ・ミー・ザ・ウェイ』は?」


フランプトンは1枚のLPのために収録曲を5曲に絞り込んでいた。なぜならば、ライヴの良さを分かってもらうためには、曲を短く編集せずに丸々聴いてほしかったからだ。
ところがジェリーは物足りないというのである。
そして2枚組にして収録曲を増やそうというアイデアを出してくれたのだ。

2枚組のアルバムを出すということは、当時はかなり難しいことだった。
製造コストがかさむし、アルバムの値段も上がって、リスナーは手を伸ばしにくくなる。アーティスト側が2枚組にしたいと希望したとしてもレコード会社から却下されるのが当たり前だった。

しかも、当時のピーター・フランプトンは決して成功しているアーティストではなく、ライヴ・アルバムを出すことでさえ特別なことだった。ましてやそれをレコード会社のトップから2枚組にしようと提案されるのは異例中の異例だった。

フランプトンがこの提案に喜んだのは言うまでもない。

「感動したよ。僕たちはレコード会社から全面的に支えられてるんだって分かった。
ジェリーはいつも個人として接してくれたし、A&Mレコードは家族みたいな存在だったよ」


そこまでしてジェリーがライヴ・アルバムにこだわったのは、フランプトンの音楽に対する純粋な想いと、積み重ねてきたキャリアによって洗練されたパフォーマンスに深い理解を示していたからだった。

1950年にロンドンで生まれたピーター・フランプトンが音楽に興味を持ったのは7歳のときだ。
祖父のバンジョレレ(その名の通りバンジョーとウクレレを合わせた楽器だ)を見つけて独学で弾けるようになると、天性の才能で今度はピアノやギターといった楽器も独学でマスターし、音楽の世界へとのめり込んでいった。

最初のチャンスが訪れたのは1966年。
まだ16歳ながらも、卓越したギター・テクニックと端正な顔立ちで、“天才美少年ギタリスト”として知られていたフランプトンは、ザ・ハードというバンドに加わるとその年にレコード・デビューを果たす。
レコード会社がフランプトンのルックスを武器にアイドル路線で売り出すとこれが的中、イギリス中の若い女の子の支持を集め、メディアで「1968年の顔」として取り上げられるなど順調なスタートを切るのだった。



しかしアイドル路線に不満を抱いて1969年にバンドを脱退し、元スモール・フェイセズのスティーヴ・マリオネットらと新たにハンブル・パイを結成する。
当初はフランプトンのギター・ポップ志向とマリオットのブルース志向が混在していたのだが、マリオットのソウルフルなシャウトを押し出したブルース路線が人気を集めるとハンブル・パイはその方向にシフトしていき、フランプトンはまたしてもバンドを抜けるのだった。



そのときハンブル・パイが所属していたのがジェリー・モスのA&Mレコードだ。
1971年、フランプトンの音楽を高く評価していたA&Mはソロで契約を結び、フランプトンはようやく自身の音楽を追求できる環境を手に入れる。
ところが、レコードはなかなかヒットしなかった。

レッド・ツェッペリン、デヴィッド・ボウイ、クイーンと次々に新たなスターが登場し、かつての“天才美少年ギタリスト”は次第に世間から忘れ去られていく。
そんな時代の移り変わりの中で、アメリカを中心に地道なツアー活動を続けると、次第にパフォーマンスが評判となり、1974年には4枚目のアルバム『フランプトン』が全米チャートで32位にまで浮上した。
そして1975年、ツアーでのパフォーマンスに確かな手応えを感じたフランプトンとA&Mは、ライヴ・アルバムの制作に踏み切るのだった。

2枚組にすることが決まると、新たにライブを録音して全14曲にボリュームアップし、ピーター・フランプトン初のライヴ・アルバム『フランプトン・カムズ・アライヴ』が完成した。

flampton_comes_alive

1976年1月6日、リリースされた初週こそ全米で191位だったが、評判が評判を呼んでそこから順位を徐々に上げていき、3ヶ月後の4月10日には1位を獲得する。
快進撃はまだまだ止まらなかった。そこから10週連続で首位をキープし、アメリカ国内だけで年間600万枚以上を売り上げ、それまでキャロル・キングの『つづれおり』が保持していた全米でのセールス記録を塗り替えるという偉業を成し遂げたのだ。
その勢いは他国にも拡がり、世界中で1000万枚以上のセールスを記録、A&Mレコードには巨額の売上金が入るのだった。

アイドルになることを拒み、バンドとしての成功も捨て、自身の音楽を追求し続けた末に、フランプトンはようやく栄光を掴む。
その成功はジェリー・モスという良き理解者が、2枚組のライヴ・アルバムを出すという決断に踏み切ったからこそ訪れたのだ。



Peter Frampton『Frampton Comes Alive』
A&M

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