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ロック・コンサートの新たな時代を切り拓いたビートルズのシェア・スタジアム・コンサート

2016.03.15

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1965年、ビートルズの人気は空前絶後のものとなっていた。
4月にリリースしたシングル「涙の乗車券」は英米ともに1位、7月には2作目となる映画『ヘルプ!4人はアイドル』が公開され、ビートルズの話題が途切れることはなかった。
そして8月には3回目となる全米ツアーが、ニューヨークのシェア・スタジアムで幕を開けるのだった。

前年の夏は、21都市27公演をたったの1ヶ月で回るという超ハードスケジュールだったのだが、この年の公演数は半分以下に減らされた。
おかげでメンバーやスタッフの負担は軽くなったのだが、代わりに会場の収容人数を増やす必要があった。
そこでビートルズの全米ツアーを受け持ったプロモーター、シド・バーンスタインが提案したのが、約6万人近くを収容できるニューヨーク・メッツのホーム、シェア・スタジアムだ。

ビートルズのマネージャーだったブライアン・エプスタインは当初、シェア・スタジアムに乗り気ではなかった。過去にそれほど大きなスタジアムがコンサートで満員になった例がなかったからだ。
しかしシドの「売れ残ったチケットは買い取る」という強い自信と熱意に押され、ブライアンはシェア・スタジアムでの公演を了承する。

チケットの値段はブライアンの意向で4ドルから5ドルに設定された。
誰でも見に来れるようアルバム1枚分よりも安い値段にする、というのがブライアンのやり方だった。
その目論みどおりチケットは完売となり、8月15日のシェイ・スタジアムは55600人のビートルズ・ファンで埋め尽くされるのだった。

ビートルズの警備は前年以上に厳重になり、送迎には装甲車が使用された。
ヘリコプターで最寄りのヘリポートに降りたメンバーを装甲車でスタジアムまで送り、裏口のドアの前に停めてそのまま会場入りさせるので、一切ファンの目に触れることなく安全に送り届けることができた。

夜の9時過ぎ、エド・サリヴァンの紹介でビートルズが登場すると会場は総立ちとなり、割れんばかりの歓声が巻き起こる。

Shea

1曲目の「ツイスト・アンド・シャウト」が始まると、歓声はさらに勢いを増した。
最寄りの席でさえ50mほど離れていたが、そんなことなどお構いなしに会場はヒートアップしていく。
演奏中に女性ファンの悲鳴が鳴り止まないのはいつものことだったが、このときは55600人という前代未聞の人数のせいもあり、それまでにないほど凄まじいものとなった。

止むことのない歓声の中で全12曲を披露すると、ビートルズはステージを降りて用意されていた車に乗り込み、グラウンドに入り込んだファンを横目に会場を後にするのだった。
その間わずか30分、嵐のような悲鳴にかき消されて演奏はほとんど聞こえなかったが、その場に居合わせた者にとって一生忘れることのできないコンサート体験となった。


演奏が聞こえなかったのは歓声が大きかったせいもあるが、当時は大きな会場で大音量のロックを鳴らせるようなPAシステムが確立されていなかったというのも大きかった。
『ロック・クロニクル 現代史のなかのロックンロール』の著者、広田寛治氏は同書でこのコンサートをこう分析している。

しかしこれ以降、大きな会場にも耐えうるPAシステムの開発が急速にすすみ、六〇年代末から七〇年代はじめにはさまざまな場所で大規模コンサートを開催することが可能になる。こうした意味でもビートルズは現在につながるビッグ・コンサートやショー・ビジネスの新しい扉を開くことになったのだった。


シェア・スタジアムでのコンサートから数年後、ニューヨークの街を歩いていたプロモーターのシドは、偶然にもジョン・レノンとの再会を果たしたという。
シドが食通だったことを知っていたジョンは、ニューヨークの美味しい店をいくつか教えてもらうと、こう口を開くのだった。

「シェア……昔はよかったな、シド? 面白かったよな?」

「ああ……昔はよかった」


ジョンにとって、シェア・スタジアムでのコンサートは良き思い出となったようだ。

しかし、そんな楽しい日々は長く続かなかった。
翌年のツアーではビートルズに次々と災難が降り注ぎ、彼らは1966年の8月29日を最後に、コンサートを封印することとなる。

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