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美空ひばりのロサンゼルス公演を実現させるために一肌脱いだ作曲家の小林亜星

2016.12.13

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童謡「赤とんぼ」などを作曲し、大正から昭和にかけて日本での西洋音楽の普及に大きく貢献した音楽家、山田耕筰が亡くなったのは1965年のことだった。
遺言には「自分の歌を美空ひばりに歌ってもらいたい」という事が書かれていた。
ひばりは18歳のときに山田からレッスンを受けたことがあり、そうしたつながりもあって山田耕筰の歌をひばりが歌うアルバムが制作されることになる。

そのときに日本コロムビアから編曲を依頼されたのが、CM音楽の世界で活躍していた小林亜星だった。

ラジオ体操第一などで知られる服部正に師事して作曲家としての道をスタートさせた小林は、1961年に書いたレナウンのCMソング「ワンサカ娘」が成功、フランスの人気歌手だったシルビー・バルタンによって大ヒットした。



小林はその後もCMソングを中心に着実にキャリアを重ねて、1971年に発売した阿久悠が作詞した「ピンポンパン体操」が大ヒットを記録、1972年の第14回日本レコード大賞では童謡賞を受賞している。

そして時は1973年のことになる。
事の発端は小林がロサンゼルスにいたときに、酔った勢いで発した言葉だった。

その当時はよく仕事でロサンゼルスに行っていたので、日系の人たちが「ひばりが来ないと戦後が終わらない」と言うんで、僕は酔った勢いで「それじゃ俺が呼んでやる」と請け負ってしまった。
コロムビアの仕事でご一緒した機会にお願いして、苦労の末、実現したんです。
(引用元:『阿久悠 いのちの歌』講談社)


ひばりは以前に1度、ロサンゼルスで公演をしたことがある。

それはデビュー間もない1950年のこと、まだ13歳の中学生ながらも「悲しき口笛」の大ヒットによって天才少女歌手として知られていたひばりは、恩師でもある喜劇スターの川田晴久とともにハワイとアメリカ西海岸を2ヶ月かけて回っていたのだ。

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とは言っても20年以上も前のことであり、その間に築き上げたひばりの輝かしい実績を思えば、再びロサンゼルスに来てほしいという声が日系の人たちから出て来るのは当然のことだった。

ところで1973(昭和48)年というのは美空ひばりの一家をめぐって、弟の小野透(芸名)の事件が明るみに出て山口組三代目の田岡一雄とひばり一家の関係が、マスコミで盛んに取り上げられた年である。

そのために全国の公会堂や市民ホールから公演での使用を拒否されたり、10年連続でトリを務めてきた紅白歌合戦を辞退させられるなど、ひばり一家は非常に厳しい状況に立たされていた。
アメリカ公演が行われたのは、そうした時期にあたる。

アメリカでもトップスターしか使えない大きなホールを使うこと、1都市1公演とすること、アメリカで現役のトップクラスの指揮者・楽団を使うことが、ひばり側から出された条件であった。
それをプロモーターではなく作曲家の小林亜星が個人で引き受けて、アメリカに住む日系の人たちのために一肌脱いで、苦労して実現させたのは快挙といってもいいだろう。

小林はひばりの歌う「スターダスト」などのジャズを高く評価していたので、考えられるうちで最高の指揮者、フランク・シナトラのアレンジャーとしても名高いネルソン・リドルに音楽監督を依頼する。



ひばりの歌をレコードで聴いてネルソンはその才能に惚れ込み、ひばりに捧げる前奏曲を2曲作って公演の準備をしていたという。

それについて、小林はこう語っている。

天才というのはどこの国の人が聞いてもわかるんですね。
リドルは「ぜひ来年はひばりと一緒にヨーロッパ興行したい」と言ってくれたんですが、残念ながらそれは実現しませんでした。


残されたライブ・アルバムの曲目を見ていくと、アメリカ進出を狙ったというものではなく、日本で公演ができなくなったこともあって、日系人の頼みを聞き入れてアメリカでライブを行ったのだ。

だが公演のための会場を締め出された日本を見返してやる、そのくらいに気迫のこもったライブが展開している。
アメリカでも最高のレベルの楽団をリドルが指揮したこともあって、それは明るさと力強さにあふれる魅力的なライブとなった。

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