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売れないバンドだったキッスが放った起死回生のライヴ・アルバム

2021.09.10

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のちにキッスを結成することになるポール・スタンレーとジーン・シモンズ。
2人はもともとウィキッド・レスターというバンドのメンバーだった。

1970年に結成されたウィキッド・レスターは、翌1971年にデモテープを聞いたエピック・レコードからアルバムを発売しようと持ちかけられ、1年近くをレコーディングに費やしてアルバムを完成させた。
ところがようやく完成したアルバムに対するエピックの反応は非常に渋く、アルバムを出すという話はなかったことにされてしまう。

結成から2年余り、その活動内容はたった2回のライヴと、お蔵入りになってしまったアルバム制作のみだった。ほとんど人前で歌っていないからファンもいないし、先の見えない状況に痺れを切らしてメンバーも抜けていった。

ポールとジーンは自分たちのバンドに必要なのは印象的なイメージと、明確な音楽の方向性だと分析し、新たなメンバーを探して再スタートを図る。
1973年の1月、リード・ギターのエース・フレイリーとドラムのピーター・クリスを加えた彼らは、バンド名をキッスに改めた。

デヴィッド・ボウイやT・レックスを筆頭に、派手な化粧や衣装が印象的なグラムロックが全盛だったこの時代、彼らもまた白塗りや様々な衣装を試して、自分たちに合ったイメージを模索していった。
そして自分たちに女性のようなメイクは似合わないという結論に至った彼らは、お馴染みのキッス・メイクに辿り着くのだった。

初ライヴではたったの3人しか観客がいなかったという彼らのステージも、彼らの奇抜な格好や派手なパフォーマンス、そして実力に裏打ちされたパワフルな演奏により、次第に高い評価を集めていった。
キッスは1年足らずで新興レーベルのカサブランカ・レコードとの契約を交わし、翌1974年の2月には1stアルバム『地獄からの使者』をリリースする。
ウィキッド・レスター時代に苦汁をなめたポールとジーンの2人にとっては、念願のレコード・デビューとなった。



結成からデビューまでは順調に来ていたキッスだが、しかしここからがほんとうの苦難の日々の始まりとなった。
アルバムの内容に自信のあったメンバーとレーベルは大々的にプロモーション・ツアーを展開したが、アルバムの売れ行きは伸びず、全米チャート87位という結果に終ってしまう。
続く2ndアルバムと3rdアルバムもセールス的には振るわず、彼らはマネージャーのクレジットカードで、かろうじて生きながらえるという日々を過ごすのだった。

加えて、所属するカサブランカ・レコードも、破産寸前にまで追い込まれていた。
絶対に売れるはずだと確信して100万枚以上もプレスした、ジョニー・カーソンというコメディアンの2枚組レコードが売れず、莫大な負債を抱えてしまったのだ。

売れないバンドと破産寸前のレーベル、窮地に追い込まれた両者に一筋の光明が差したのは1975年の春。
4月にシングルカットされた「ロックン・ロール・オール・ナイト」が、デトロイトのラジオ局で火がついて連日かかっているという情報が入ってきた。

かねてからライヴ・アルバムを出したいと考えていたメンバーとレーベルは、ここで勝負に出ることにした。
予定していたツアーをキャンセルして急遽デトロイトでのコンサートを開催し、それをライヴ・アルバムにすることを決めたのだ。
彼らの目指すライヴ・アルバムには大観衆による熱狂が必要不可欠であり、デトロイトでならそれを得られるかもしれなかった。

5月16日、1万人以上を収容できるデトロイトのコボ・ホールには大勢の観客が詰めかけ、ステージにキッスが現れると、それまでメンバーが経験したことがないほどの歓声が上がった。



キッスの2枚組ライヴ・アルバム『地獄の狂獣 キッス・ライヴ』は1975年9月10日にリリースされると、瞬く間に売り上げを伸ばしていき、全米チャート9位まで上昇すると、そこから110週にも渡ってチャートインし続けた。
キッスは人気グループとしての地位を確立し、カサブランカ・レコードも経営を立て直すことに成功する。

その後、キッスは4作連続でプラチナディスクを獲得するという、驚異的な快進撃を展開していったのである。



(注)本コラムは2017年10月3日に公開されました。


キッス『地獄の狂獣 キッス・ライヴ』
Universal

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