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異例づくしとなったスティーヴィー・ワンダーの初ヒット「フィンガーティップス」

2017.11.28

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数々のヒット曲を生み出し、グラミー賞でこれまでに男性シンガーで最多の22部門を獲得しているスティーヴィー・ワンダー。
彼が「フィンガーティップス」ではじめて全米シングルチャート1位を獲得したのは、わずか13歳のときだ。これはソロによる全米チャート1位の最年少記録でもある。
それだけでも驚嘆に値するが、レコードの内容がライヴというのも、他のヒット曲とは一線を画していた。何しろ、それまでライヴが全米シングルチャートで1位になったことなどなかったのである。

本名スティーヴランド・ハーダウェイ・ジャドケンス・モリスが生まれたのは1950年のことだ。
未熟児網膜症により生まれてすぐに目が見えなくなったスティーヴィーにとって、音楽はコミュニケーションツールであり、世界との繋がりあった。
その音楽的才能は幼少時代から遺憾なく発揮され、ドラムやピアノ、ハーモニカなど様々な楽器を次々とマスターしていく。
そして11歳の時、その才能を買われて新興レーベルだったモータウンと契約を果たし、リトル・スティーヴィーの名を与えられるのだった。

社長のベリー・ゴーディとプロデューサーのクラレンス・ポールは、スティーヴィーをデビューさせるにあたり、シングルのリリースには特に慎重になった。
シングルがヒットすればラジオでたくさんかかり、アルバムのセールスにも繋がっていく、それがセオリーだったからだ。

最初はその子供らしからぬ演奏技術の高さやアレンジの才能にスポットを当てて、インストゥルメンタルを中心に、アルバム1枚分のレコーディングを行った。しかしシングルでヒットするような曲はないと判断し、リリースは見送りとなる。
次に試みたのは、すでに成功を収めていたレイ・チャールズのカバー作品だ。こちらもレコーディングしてみたものの、やはりシングルでヒットを狙うのは難しいだろういう理由で見送られた。

そうした経緯を経て1962年8月16日、ようやくファーストシングル「プリティ・ミュージック」をリリースするが、モータウンの努力もむなしくヒットには至らなかった。
その後もモータウンは立て続けにシングルをリリースするがヒットには繋がらず、すでにレコーディングしていたアルバム2枚もリリースしたが、どれも結果は芳しくなかった。
類まれな天才、スティーヴィー・ワンダーだったが、そのレコードをヒットさせるのは予想以上に難しいと2人は痛感するのだった。

そんな中、ゴーディとクラレンスが目をつけたのは、コンサートでのスティーヴィーだった。
スティーヴィーのパフォーマンスはいつも観客の反応がよく、演奏もスタジオ以上に熱が入っていたからだ。
ステージでの演奏をそのままレコードにするのが、スティーヴィーの魅力を一番伝えられるのではないだろうか、2人はその可能性に賭けるのだった。

この頃モータウンは所属アーティストたちを連れ、「モータウン・レビュー」と呼ばれるツアー業を行っており、その一部は映像や音で保存されていた。
ゴーディとクラレンスはその中から、1962年の6月にシカゴのリーガル・センターで行われたときの、スティーヴィーの「フィンガーティップス」をレコード化することを決める。

「フィンガーティップス」は『ジャズ・ソウル・オヴ・リトル・スティーヴィー』に収録されているナンバーだ。オリジナルだとスティーヴィーはボンゴを叩き、ファンク・ブラザーズのメンバーによるブルージーなフルートが全編に渡って展開する。



この曲をライヴでやるとき、スティーヴィーはボンゴやピアノなどで参加していたが、リーガル・センターでの本番前、スティーヴィーはハーモニカを吹きたいとクラレンスに許可を求めた。おそらくはレコーディング時のフルートの演奏に触発されたのだろう。
クラレンスは判断に迷ったが、スティーヴィーのハーモニカの腕前は確かだったので、やらせてみることにする。

マーヴィン・ゲイに続いてステージに登場したスティーヴィーは、ボンゴを叩きながら巧みなトークで観客の気持ちを高めていく。

「……さあ、みんな、これから僕のアルバム『ジャズ・ソウル・オヴ・リトル・スティーヴィー』の曲をやるよ、曲のタイトルは「フィンガーティップス」……手拍子して、カモン、カモン……足を鳴らして、ジャンプして、踊りまくって……イエー!」


手拍子が鳴り、ドラムが入ると、スティーヴィーはボンゴからハーモニカに切り替え、そこから無我夢中でハーモニカを吹き続ける。
スティーヴィーはいつまでもハーモニカをやめる気配を見せず、バックバンドは困惑しながらもそれについていった。
そのまま3分以上が過ぎると、今度は即興で歌い始める。予定の演奏時間はとっくに過ぎていた。
やがて演奏がスティーヴィーのハーモニカと手拍子のみになると、スティーヴィーは「メリーさんの羊」のフレーズで子供らしい愛嬌を覗かせてみせた。
そこへ間髪入れずバックバンドが入り、ようやく「フィンガーティップス」はエンディングを迎える。

ジングルが演奏され、スティーヴィーは拍手喝采の中ステージを降りていったのだが、これで終わりではなかった。
次の出演者が登場しようというのに、スティーヴィーはステージに戻ったのだ。
そのときの状況をクラレンスはこのように振り返っている。

「あんな騒動は初めてだったよ。びびったね。
彼を抱き上げてステージから下ろしたんだ。でも若い連中の声援を聞いて、ステージに戻りたがってね。それでまたステージに飛び上がっちまったのさ」




ゴーディとクラレンスはこの時の「フィンガーティップス」を、混沌としたアンコール部分も含めてシングル化する。
そして1963年の5月21日にリリースされた4枚目のシングル「フィンガーティップス」は全米1位となり、同曲を収録したライヴ・アルバム『12歳の天才』もまた1位を獲得、モータウンはようやくスティーヴィー・ワンダーをヒットさせることに成功するのだった。


引用元:
『スティーヴィー・ワンダー ある天才の伝説』スティーヴ・ロッダー著/大田黒泰之訳(ブルース・インターアクションズ)


Stevie Wonder『Recorded Live: The 12 Year Old Genius』
Motown

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