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暴動でフェスが中止となる中、白人たちの心を掴んだマディ・ウォーターズの『アット・ニューポート1960』

2018.05.15

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若者たちが暴動を起こしたのは、マディ・ウォーターズが出演する前日のことだった。

アメリカ北東部に位置し、もっとも小さい州として知られるロードアイランド州。その湾岸部にはいくつもの島々が点在しており、そのうちのひとつであるロード島の南部に位置する都市、ニューポートは19世紀から別荘地として親しまれてきた。

しかしこの街が世界的に有名になったのは、1954年から始まったニューポート・ジャズ・フェスティバルによるところが大きいだろう。
中でも1958年に開催された第5回は『真夏の夜のジャズ』として映画化され、ジャズ・ドキュメンタリーの最高傑作として高く評価されている。
詳しくはこちらのコラムをどうぞ

そんなニューポート・ジャズ・フェスティバルに「シカゴ・ブルースの父」ことマディ・ウォーターズが出演したのは1960年のことだ。
この年は4日目にブルース・プログラムが予定されており、マディの他にもジョン・リー・フッカーなど何組かのブルースマンが参加している。

事件が起きたのはフェス3日目、7月2日の夜だった。
ステージではレイ・チャールズが歌っていたのだが、そこへチケットが売り切れで会場に入ることの出来なかった若者たちが大勢押し寄せ、暴動を起こしたのだ。
会場の警備では手に負えず、深夜に州兵が駆けつける事態となり、最終的には2~300人もの逮捕者が出た。
この状況を重く見たニューポート市の市議会は運営側に中止を要請し、4日目以降のジャズ・ミュージシャンによる演奏は中止となってしまう。
しかし不幸中の幸いというべきか、ブルース・プログラムだけは認められるのだった。

7月3日。
ジョン・リー・フッカーや、マディのバックバンドのリーダーで異母兄弟でもあるブルース・ピアニスト、オーティス・スパンなどが出演し、ブルース・プログラムは順調に進んでいった。

マディ・ウォーターズがステージに上がったのは17時頃だ。
広い会場と大勢の白人たちを目の当たりにしたマディは、普段の観客とまったく違うことを実感するも、臆することはなかった。
1曲目に演奏したのは、1ヶ月前にレコーディングしたばかりでまだリリースされていない「アイ・ゴット・マイ・ブランド・オン・ユー」だ。
そこから代表曲のひとつである「フーチー・クーチー・マン」へと展開して徐々に盛り上げていく。「タイガー・イン・ユア・タンク」が終わるとスタンディングオベーションが巻き起こった。
そして「ガット・マイ・モジョ・ワーキング」ではダンスも披露し、会場は熱狂に包まれた。



マディのパフォーマンスが終わると、その日の出演者たちがステージに上がってブルースのメドレーを披露、最後は詩人のラングストン・ヒューズがフェスの中止を知り、即興で書き上げた「グッバイ・ニューポート・ブルース」で幕を下ろした。

その模様を収めたアルバム『アット・ニューポート1960』がリリースされたのは、フェスから4ヶ月後の11月15日のことだ。
このアルバムはマディにとって初のライヴ・アルバムであるだけでなく、最初のブルース・ライヴ・アルバムのひとつにも数えられている。

当時、ロックンロールの洗礼を受けた一部の若者から支持されていたとはいえ、全体で見ればブルースは白人にとってまだまだ馴染みのない音楽だった。
その垣根を超えて、白人の音楽ファンにもブルースが浸透していく中において、この『アット・ニューポート1960』が果たした役割は非常に大きいのだった。

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