「本物の音楽」が持つ“繋がり”や“物語”を毎日コラム配信

TAP the POP

TAP the LIVE

伝説のライブハウス、CBGBとその最後を飾ったパティ・スミス

2019.12.10

Pocket
LINEで送る

2006年の10月15日、ニューヨークのイーストヴィレッジに構えるライブハウスの最期を見届けようと、多くの人たちが集まった。
そのライブハウスの名前はCBGB。まだ無名だった頃のラモーンズやテレヴィジョン、パティ・スミスなどが出演していたことで知られる伝説的なライブハウスだ。

CBGBがオープンしたのは1973年。オーナーのヒリー・クリスタルは、かつて有名ジャズクラブ、ヴィレッジ・ヴァンガードでマネージャーを務めていた人物だ。
カントリー、ブルー・グラス、ブルースの頭文字を取って名付けられたCBGBだが、そこに込められた意図とは対照的に、集まったのは野心と想像力に溢れたアーティストの卵たちだった。

パティがこの店に足を運んだのは1974年春のことだ。
詩人がベースを弾いているというバンドが気になって、どんな演奏をするのか興味が湧いたのだという。

CBGBがあるのはニューヨークの外れ、ホームレスが店の前で寝泊まりしているような、気取った感じとは無縁の場所だ。
そんな佇まいにパティは居心地の良さを覚えた。

CBGBは、地下深くにある狭いスペースで、右手に沿ってバーがあり、様々なビールメーカーのネオンサインが光っていた。
ステージは低く、その左側には世紀末の水着姿の美女たちをとらえた写真が壁画のように飾ってあった。


ステージに出てきたバンドの名前はテレヴィジョン。
彼らの演奏が始まると、パティはすぐに心奪われた。
中でもギターのトム・ヴァーレインが印象的だったという。

私は右側にいたギタリストに対してある種の親しみを感じた。
背が高く、黄みがかった金髪で、長く優美な指はギターのネックを、まるでギターを絞め殺してしまうかのように包んでいた。
このギタリスト、トム・ヴァーレインは、きっと『地獄の季節』を読んでいるに違いないと踏んだ。


まもなくしてパティ・スミスも自身のバンドとともにCBGBのステージに上がるようになり、テレヴィジョンやラモーンズと並ぶ看板バンドのひとつへと成長していった。
そしてパティ・スミスは1975年に1stアルバム『ホーセス』をリリース、翌年にはラモーンズが、翌々年にはテレヴィジョンがアルバムをリリースする。
彼らの成功によって、CBGBは大手レコード会社も注目する新人バンド発掘の場となったのである。

時は戻って2006年、CBGB最後の日。
パティが1曲目に選んだのはマーヴェレッツの「ハンター・ゲッツ・キャプチャード」だ。それはパティがはじめてCBGBのステージに立ったときに演奏した曲だった。
決してノスタルジックな雰囲気にはせず、なにかのはじまりを感じさせるような夜にしたい、というパティの意思が伝わる選曲だ。



ライブには元テレヴィジョンのリチャード・ロイドやレッド・ホット・チリ・ペッパーズのフリーも駆けつけた。
リチャードはテレヴィジョンの人気ナンバー「マーキー・ムーン」で、パティのバンドに加わって演奏を披露している。


次々とCBGBに所縁のある曲が演奏され、狭い店内は熱気と興奮が絶えず充満していた。

そしてあっという間にアンコールの時がくる。
パティの名を一躍有名にしたヒット曲「グロリア」が演奏され、サビではラモーンズの「ブリッツクリーグ・バップ」に登場するシャウトを織り交ぜるという、ニューヨーク・パンクのファンにはたまらない展開となった。

「グロリア」が終わると、パティは最後に「エレジー」を歌い、曲の中で亡くなった仲間たちの名前を読み上げた。
初期のバンドメンバーだったリチャード・ソール、ラモーンズのジョーイ・ラモーンやジョニー・ラモーン、ニューヨーク・ドールズのジョニー・サンダースなど。。。
彼らの名前を読み上げたのは、死者は生者の記憶の中で生きている、というメッセージだ。

私が短いリストを読み上げていた時、ほんの一瞬だけど、部屋に感情的な力が満ち溢れていたおかげね、彼らがそこにいてくれた気がするの。

(『ローリング・ストーン誌』のインタビューより)



引用元:『ジャスト・キッズ』パティ・スミス著/にむらじゅんこ 小林薫訳(アップリンク)

Pocket
LINEで送る

あなたにおすすめ

関連するコラム

[TAP the LIVE]の最新コラム

SNSでも配信中

Pagetop ↑

トップページへ