街の歌

銀座カンカン娘・後編〜戦後の売春婦、そして日本随一の繁華街の歴史〜

2015.07.12

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「銀座カンカン娘」/美空ひばり


あの娘可愛いや カンカン娘
赤いブラウス サンダルはいて
誰を待つやら 銀座の街角
時計ながめて そわそわにやにや
これが銀座の カンカン娘

<中略>

カルピス飲んで カンカン娘
一つグラスに ストローが二本
初恋の味 忘れちゃいやよ
顔を見合わせ チュウチュウチュウチュウ
これが銀座のカンカン娘
これが銀座のカンカン娘


この歌は1949年(昭和24年)、すなわち終戦の4年後に山本嘉次郎監督がつくった映画『銀座カンカン娘』の主題歌として女優・高峰秀子が歌った昭和を代表する名曲だ。
タイトルにもなっている何とも不思議な言葉「カンカン」とは、山本監督の造語であり、当時の売春婦の蔑称「パンパン」に対して「カンカンに怒っている」という意味が込められているのだという。
当時、高峰秀子も意味が分からず「カンカン娘ってどういう意味なんですか?」と
作曲した服部良一と、作詞した佐伯孝夫の二人に尋ねたところ…実は二人ともその意味をよく知らなかったという逸話が残っている。
あくまで山本監督が感覚的に決めた言葉であって、身体を売る女性を非難しているのではなく…それはきっと“そうしないと生きられない戦後の世情”に対して悔しくて腹を立てている気持ちを表現したものなのだろう。


日本が敗戦した1945年の9月以降の連合国軍による占領統治下、主として在日米軍将兵を相手にした街中の娼婦(街娼)は「パンパン」「パンパンガール」「パン助」と呼ばれていた。
「パンパン」は不特定多数の兵士達を客とする娼婦を指し、特定の相手(主に上級将校)のみと愛人関係を結んで売春をする女性を「オンリー」「オンリーさん」といった。
そんな「パンパンガール」や「オンリーさん」達は、1946年には日本全国で7万人から8万人がいたと言われ、その後、朝鮮戦争の激化した1952年には15万人近くいたとされている。
1956年(昭和31年)の売春防止法施行後は激減したが、ベトナム戦争が激化した1960年代後半頃までは米軍基地周辺に存在していたという。
敗戦により経済的に困窮した日本では、生きるために止む無く(あるいは金銭を楽に得るために)身体を売る女性が多くいたのだ。
そんな時代背景と重ね合わせながら、あらためてこの「銀座カンカン娘」の明るく希望に満ちたメロディに耳を傾けてみると…どことなく哀しげに聴こえてきたりもする。


映画『銀座カンカン娘』オープニング


指をさされて カンカン娘
ちょいと啖呵も 切りたくなるわ
家(うち)がなくても お金がなくても
男なんかに だまされまいぞよ
これが銀座の カンカン娘


雨に降られて カンカン娘
傘もささずに 靴までぬいで
ままよ銀座は 私のジャングル
虎や狼 恐くはないのよ
これが銀座の カンカン娘


今やアジアを代表する街、銀座。
デパートや高級ブランド店、話題のファストファッションのビルも並び、観光客も多く訪れる日本屈指の繁華街である。
この銀座の街の発展の歴史を、簡単に振り返ってみよう。
──「銀座」の地名は江戸時代の銀貨を鋳造する組織「銀座役所」がこの場所にあったことから来ている。
正式な町名は“新両替町”と言っていたが、通称で銀座と呼ばれ、明治時代にそれが正式な地名となった。
江戸時代の銀座は主に様々な職人達が住む街であるのと同時に能役者達の屋敷があったことで、能、歌舞伎、画家などの芸術家達が集まる街でもあった。
今でもブティックがある一方で、歌舞伎座があったり、数えきれないほどのギャラリーがあるのと同じように、江戸時代から銀座は芸術と商売の街だったのだ。
今のティファニーの正面に当たる場所に、かつて「銀座役所」が存在した。

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江戸時代から明治に入り、この街が変わるきっかけになったのは1869年と1872年に起こった2度の大火だった。
銀座のほとんどが焼失したとも言われるこの火事をきっかけに街の再整備が行われ、西洋風の建物が立ち並ぶ最先端の町並みに生まれ変わることになる。
その後、鉄道が走り始めるなどの影響もあり、銀座は益々発展を遂げていった。
こうして商業の中心地となった銀座には、新聞社も多く集り、まさに“日本の繁栄”の象徴的な場所となった。

時は流れ…大正になって、またもや銀座は生まれ変わることになる。
大正12年(1923)9月1日、今度は関東大震災によってまた街が大きく焼失してしまったのだ。
とはいえ、銀座はめげることなく着実に復興を遂げていく。
その時に主役になったのがデパートの存在だった。
まず大正13年に松坂屋がオープンする。
それまで慣例だった下足預かりをやめて、全館土足入場という画期的なものだった。
そのほかにも有楽町、新橋駅との往復無料送迎バス、屋上に動物園をひらくなど、新商法を次々と打ち出した。
動物園にはヒョウやライオンもいたとか。
大正14年(1925)には松屋デパートが開店。
中央に吹き抜けのある店舗には、水族館があった。
そして昭和5年、三越が開店。
この3つのデパートの大規模開発に地元専門店は心配もしたようだったが、かえって専門店としての競争力を高め、百貨店と専門店の共存共栄という銀座の特徴のひとつが、この時生まれたのだという。
ショッピング街として再び蘇った銀座には、カフェやバーなどのお店も集まり震災前以上の賑わいを見せるようになる。
昭和4年(1929)にはついに、不動産賃貸額が日本橋を抜いて全国一位となる。
日比谷に映画・劇場街が開発されたのもこの頃。
昭和9年には浅草から延伸してきた地下鉄がついに銀座まで開通。
繁華街の頂点である浅草の客が、銀座にも流れてくるようになりました。
こうして銀座は押しも押されぬ日本一の街と言われるようになっていった。

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この後、日本は戦争に突入していくことになり、「贅沢は敵だ」の時代の中で、商店の営業規制だけではなく空襲を受けるなど、銀座も多くの被害を受けてしまう。
終戦した後も進駐軍向けのPX(軍専用の売店)となったりしたのだが、商店主たちの手によって着実にの復興を進めていく。
戦後の日本の復興の中で、渋谷や新宿と言った東京の西がめざましい発展をとげ、新し物好きの若者達はそちらの街に徐々に移っていってしまったことから、今では若者のカルチャーの中心地といったポジションは失われてしまったものの、重厚感のある独特の高級繁華街として今なお多くの人が賑わう街になっている。

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ところで、日本各地に「○○銀座」が存在する理由をご存知だろうか?
昭和2年(1927)7月、日本で初めて銀座の名前を商店街につけたのは、品川区にある「戸越銀座」商店街だった。
それは単に“銀座”という名前(ブランド)の人気にあやかろうとしたのではないのだという。
関東大震災で被害を受けた銀座(東京都中央区)から、当時ガス灯用のガス発生炉用耐火レンガとして使用されていたレンガを戸越の人々が譲り受け、当時水はけの悪かった戸越の大通り等に再利用したことが「○○銀座」発祥のきっかけだったのだ。
それ以降、人が集まり栄える“にぎやかな場所”という意味や願望を込めて、日本中で銀座の名を商店街や通りにつける場所が増えていったのだという。

──この曲が誕生して66年の時が流れた。
我が国は、多くの尊い命が犠牲になった太平洋戦争の終結から今年でちょうど70年の節目を迎える。
この間、日本は戦闘で1弾も発射せず、1人の戦死者も出していない。
2015年、いま日本は大きな曲がり角に立っている…。


「銀座カンカン娘」/井上陽水


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オムニバス『青春歌年鑑 50年代総集編』

(2004/日本コロムビア)


井上陽水『UNITED COVER』

井上陽水『UNITED COVER』

(2001/フォーライフ ミュージックエンタテイメント)

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