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キース・ジャレット少年時代〜神童と呼ばれた高IQの子供、2学年飛ばしで入学した小学校、そしてクラシックからジャズへ

2019.12.01

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「僕はピアノと共に育ち、人間の言葉とピアノの言葉を同時に覚えた。」(キース・ジャレット)


1945年5月8日、彼はペンシルバニア州アレンタウンで音楽好きの両親のもとに生まれた。
奇しくもその日は、対独戦争の終了を祝うVEデイ(Victory in Europe Day: 第二次世界大戦において連合国がドイツを降伏させたとしてヨーロッパにおける勝利を記念する日)でアメリカ中が喜びに沸き返っていた。
彼は両親の間に生まれた5人の息子の長男として育つこととなる。
彼が生まれ育ったアレンタウンは、中規模の工業都市だった。
18世紀、そこに住みついた移民たちの中にはドイツ系の民族もいて、その地域には厳格なプロテスタント(信者)が多く暮らしていた。
父方のルーツにはペンシルバニア・ダッチ(17世紀から18世紀にかけてドイツ語圏からアメリカ合衆国に移住した人々の子孫)の伝統が色濃く残っていたという。
彼は3歳からクラシックピアノを学び始め、音楽的才能を発揮する一方で学力でも優秀な子供だったという。
音楽的な素養は、父方にも母方にもあった。
母親は楽譜が読める人で、地元の楽団で歌っていた。
父親も(戦中)陸軍で催されるアマチュアコンサートで歌っていたという。
そして父方の祖母はピアノを、祖父はヴァイオリンを弾いていた。
さらに母方の伯母はピアノ教師だった。
母親は息子の神童ぶりをこんな風に語っている。

「キースは一歳にもならないうちから言葉を話し、一歳半になると“クリスマス・イヴ”という子供向けの曲をそらで歌うことができました。」


彼の並はずれた音楽の才能に気づいた両親は、競売に出ていたピアノを50ドルで買った。
幼い彼はたちまちピアノが好きになり、ラジオから流れるメロディーに合わせて弾きだすようになる。

「キースには完璧な音感と天性の即興の才能があることに気づきました。私たち夫婦は息子に先生を見つけてやりたいと思いました。」


3歳から5歳までの2年間、ヤング夫人という先生が彼にピアノの基礎を教えた。
夫人は大きな音府が書かれた幼稚園児向きの教則本から始めたが、彼はすぐに小学一年生くらいまでのレベルまでマスターしてしまったという。
母親はピアノ以外にも彼の音楽知識を増やすためにこんな努力をした。

「息子と床に寝そべってクラシックのレコードを聴くんです。そして“ファゴットが聴こえるかしら?ティンパニーが聴こえるかしら?”と問いかけるんです。すぐに彼はオーケストラの楽器をすべて聴き分けられるようになりました。」


3歳から始まったピアノレッスンが順調に進んでいく一方で、彼には世間一般の学校教育が始まろうとしていた。
彼は就学前から文字が読め、同じ年齢の子たちに比べてあきらかに並外れた発達ぶりを見せていた。
地元の公立(州立)学校が、才能がある子と普通の子を別扱いすることを嫌がったので、彼の両親は私立高校に通わせることを決めた。
入学直後、彼は知能検査を受けたという。
当時6歳だった彼は、天才的なレベルのIQを持っていることが判明する。
よって入学は1年生からではなく3年生のクラスに入る形となった。
本人も入学時のことを鮮明に憶えていた。

「僕はみんなよりも2歳年下だった。それはあまり楽しいことではなかったよ。中学を卒業するまでそれは続いた。学校ではちゃんとやったけど、学校が面白いと思ったことは一度もなかった。僕は音楽をやっていたけど、そのせいで特に何かが欠けた生活をしたわけではない。バスケットボールだって得意だったし、野球にも夢中になったよ。卓球やサッカーも上手かったし、一時期はレスリングだってやっていたよ。」


彼はスポーツだけでなく、文学や詩にも興味を持っていた。
作品を愛好していただけでなく、自分でも創作をしたという。

「僕は詩を書くことが好きだった。そのうちのいくつかは大人になった僕が見ても、かなり出来のいいものだと思うよ。」


彼が11歳の時に両親が離婚をする。
その“破綻”は、彼の心に大きな傷跡を残すこととなった。
彼はその日から丸一年、大好きなピアノを弾かなかったという。
そして12歳になった彼は、今度は逆にそれまで以上にピアノに没頭するようになり、子供の頃から弾いてきたクラシック音楽だけではなく、ジャズやポピュラー音楽も弾くようになってゆく。
子供たちを引き取った母親は当時の心境をこう語る。

「離婚後の苦労は大変なものでした。小さな子供が5人もいたわけですから…私は神経衰弱になり、死んでしまおうと思った夜もありました。3つの仕事を掛け持ちしながら、とにかく子供たちを養うことで精一杯でした。」


経済的に苦しくなった中でも彼はピアノを続けさせてもらっていたが、15歳の時にそれまで習っていたクラシックのレッスンをやめざるを得なくなり…徐々にジャズに傾倒してゆく。
ピアノの他にドラムやソプラノ・サックス、ヴァイブなども次々に習得し、マルチプレイヤーぶりも発揮。
そして16歳でジャズクラブのピアニストとしての仕事を得る。
さらに18歳の時に奨学金をもらえることが決まり、バークリー音楽大学に入学しボストンに移ったが…たった1年で退学。
この頃の彼は生活が苦しく、地元のコマーシャル音楽などの仕事もしていたという。
1964年、19歳になった彼は高校時代からのガールフレンドとボストンで結婚をする。
しかし、その生活は苦しく…当時は妻の仕事で生活しているようなものだったという。
その頃の彼の音楽活動と言えば、バークリー音楽大学で教師だった2人とトリオを組んでの活動だったが、“成功”と言う二文字にはほど遠いものだった。
しかし、ある日彼に転機が訪れる。
ボストンのジャズクラブでセッションをしていたところ、キャノンボール・アダレイ六重奏団のサックス奏者チャールス・ロイドがそれを聴き、19歳の彼にニューヨークへ行くことを薦めた。
早速ニューヨークに新たな拠点を移した彼だったが、やはり鳴かず飛ばずの日々が続いた。
彼はグリニッジ・ヴィレッジにあるジャズクラブ“ヴィレッジ・ヴァンガード”に通い詰め、どうにかセッションに参加する機会を待った。
そして幸運にも同クラブで初めて演奏する機会を得た時に、偶然ジャズドラマーとしてその名を轟かせていたアート・ブレイキーがその場にいたのである。
アート・ブレイキーは当時ちょうど自身のバンドの新しい編成を考えており、その日のうちに彼を勧誘したという。
その後、アート・ブレイキーとの関係は4カ月ほどで終わってしまったのだが、これをきっかけに彼の名前はある程度広まることとなった。
1967年にはトリオ編成を組み初のリーダーアルバムを制作。
その後はマイルス・デイビスグループに参加するなど、着実に成功への階段を昇りつめてゆく。
翌年に発表したアルバム『Restoration Ruin』で、彼は11種類もの楽器を一人で演奏しており、その非凡な才能でジャズファンを驚かせた。
また、その直ぐ後に発表したライブ盤『Somewhere Before』で、彼はボブ・ディランの「My Back Pages」を取り上げ、ジャズファン以外からも注目を集めるようになる。



<引用元・参考文献『キース・ジャレット 人と音楽』イアン・カー(著)蓑田洋子(翻訳)/ 音楽之友社>

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