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大切なものを繋ぐ歌〜L-O-V-E

2014.08.31

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“L”と書いたらLook at me
“O”とつづけてO.K.
“V”はやさしい文字Very good
“E”と結べば愛の字 L・O・V・E


これはナット・キング・コールが1964年に発表した代表曲「L-O-V-E」の一節だ。
この楽曲は、ザ・ビートルズの才能を見抜いたプロデューサーとして知られるベルト・ケンプフェルトと、NYのジャズレーベル”コモドア・レコード”のオーナー兼プロデューサーでもあったミルト・ゲイブラーによる共作曲である。
そして、この日本語訳は漣健児(さざなみけんじ/本名・草野昌一)が手掛けたものだ。
漣は当時(1960年代)のアメリカンポップスをリアルタイムで400曲以上を日本語化した訳詞家・作詞家であり、シンコーミュージック ・エンタテイメント元会長として日本の音楽界に素晴らしい貢献を果たした人物でもある。

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1965年に45歳で他界したナット・キング・コールは、天国に旅立つ直前にこの「L-O-V-E」を世界に贈った。
彼はこの曲が世界中の人々に届く事を願い、英語・フランス語・ドイツ語・イタリア語・スペイン語、そしてこの日本語バージョンを含む6カ国語で歌った。
ナット・キング・コールは人生の最期に”愛の言葉”を歌ったのだ。
<関連コラム>
【TAP the SONG〜ナット・キング・コールが日本語で歌ってくれた「L-O-V-E(ラブ)」】
http://www.tapthepop.net/song/653

♪「L-O-V-E」/ナット・キング・コール(日本語バージョン)


そのナット・キング・コールを心からリスペクトした女性が日本にいた。
美空ひばりである。
1949年、当時12歳の彼女はデビュー果たす。
同時期に初主演として公開された松竹映画『悲しき口笛』が大ヒットし、一躍スターとなる。
戦後という新しい時代、彼女の存在と歌声が“日本の希望”となった。
映画の中の黒い燕尾服姿がアメリカの『LIFE』誌に紹介され、ひばりは13歳で海外公演のためアメリカに渡った。
その頃、ナット・キング・コールはジャズ界からポピュラー界に軸足を移しながら「Mona Lisa」をアメリカで大ヒットさせていた。
しかし当時はまだ、ひばりの耳にその歌声は届いていない。
1963年、26歳になったひばりは初めてナット・キング・コールを知り、その歌声に魅了された。
彼女がナット・キング・コールを知るきっかを作ったのは、竹中労(たけなかろう)という男だった。
彼は、有名人や権力者のスキャンダルを容赦なく暴き、芸能界や政界に斬り込む数々の出版物を世に送り出し”反骨のルポライター”という異名で呼ばれていた。
当時、芸能人のゴーストライターとなって生計を立てていた竹中は、美空ひばりの『手記』を執筆しており、マネージャー的役割を果たしていた彼女の母にも気に入られていたという。
その一方で、山谷の労働者を支援しながら”世界革命浪人”を名乗ったりしていた一面も持つ竹中のことを、彼女は特別な存在として信頼していたのだ。
同年、彼女が本格的にジャズを歌う事を誰よりも望んでいた父が他界した。
そしてその翌年、ひばりは小林旭との結婚生活にわずか1年半で終止符を打つ。
さらに数ヶ月後、ナット・キング・コールも他界する。
1965年、悲しい出来事が続く中…彼女はアルバム『ひばりジャズを歌う~ナット・キング・コールをしのんで~』を天国へ旅立ったジャズ歌手に贈ったのだ。
それは、心からジャズを愛しながらも日本の歌謡スターとして活躍していた彼女が「柔」(やわら)で第7回日本レコード大賞を受賞した年だった。

♪「L-O-V-E」/美空ひばり(NHKテレビ番組)



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