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友川カズキ物語〜デビューまでの道のり、映画“戦メリ”の主役を蹴った過去、怒れる詩人としての信念〜

2016.08.21

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1980年代の初頭、映画監督・大島渚はある無名のシンガーソングライターを呼び出した。
それは新作映画への出演依頼だった。
しかも主役という大抜擢。
共演者はデヴィッド・ボウイだという。
ただし、出演にあたって一つだけ条件があったという。
それは“秋田なまり”を直すことだった。

「なまりを直す気はありますか?」

監督にこう問われた男は、なんの躊躇もなく答えた。

「ありません。」

数ヶ月後…彼の代わりに坂本龍一が抜擢され映画『戦場のメリークリスマス』はクランクインした。


ビッショリ汚れた手拭いを
腰にゆわえてトボトボと
死人でもあるまいに
自分の家の前で立ち止まり
覚悟を決めてドアを押す
地獄でもあるまいに
生きてるって言ってみろ
生きてるって言ってみろ
生きてるって言ってみろ

夢と現実ぶらさげて
涙と孤独を相棒に
コケシでもあるまいに
長髪マンネリいさぎ良さ
根っこの太さはどこへやら
墓石でもあるまいに
生きてるって言ってみろ
生きてるって言ってみろ
生きてるって言ってみろ


その男の名は友川カズキ。
1974年のデビュー以来「友川かずき」として活動をしてきたが、2004年から名前をカタカナ表記にして活動をしている。
本名は及位典司(のぞきてんじ)。
1950年生まれ(現在66歳)の秋田県生まれで、中学時代に詩人・中原中也の作品に衝撃を受けて詩の創作を始めたという。
1969年、19歳のときに集団就職で上京する。
彼の物語はここから始まった。

「高校を卒業して浅草の婦人服店に就職したんですが、半年しか続かなかったね。秋田なまりが強いのに接客をやらされたもんだから。最初のうちはなまりを直そうと努力したんですけどね…。トイレに隠れて“いらっしゃいませ”って何度も練習しました。でも、やっぱりダメだった。サラリーマンには向いてなかったみたいだね。そもそも、婦人服店に就職した理由ってもの、東京へ出るのが目的だったし。」

その後、新聞配達や喫茶店のボーイなどアルバイト先を転々とするが、最終的には日給のよい土木作業員をすることが多かったという。
自分の名を「友川かずき」と名乗ったのもこの頃からだった。
なぜ偽名を名乗ったのか?

「本名の及位(のぞき)ってのをいちいち笑われて面倒だったから…。」

そんな中、彼は行きつけの赤提灯で岡林信康の歌を初めて耳にする。
それは「三谷ブルース」と「チューリップのアップリケ」だった。


今日の仕事はつらかった
あとは焼酎をあおるだけ
どうせどうせ山谷のドヤ住まい
他にやることありゃしねえ

一人酒場で飲む酒に
かえらぬ昔がなつかしい
泣いてないてみたってなんになる
今じゃ山谷がふるさとよ



うちのお父ちゃん 暗いうちからおそうまで
毎日くつを トントンたたいてはる
あんな一生懸命 働いてはるのに
なんでうちの家 いつも金がないんやろ
みんな貧乏が みんな貧乏が悪いんや
そやでお母ちゃん 家を出ていかはった
おじいちゃんに お金のことで
いつも大きな声で 怒られはったもん
みんな貧乏のせいや
お母ちゃん ちっとも悪うない



「それまでフォークソングっていうのは、単に耳触りのいい音楽だと思ってた。でも、岡林さんの歌は全然違った。当時、僕は練馬の飯場にいましたから、その歌詞があまりに生々しくて、悲しくてね…。」

彼にとってそれはまさに“青天の霹靂(へきれき)”だった。
その後、中学校から書き溜めていた詩に曲をつけようと知人からギターを借りてくるも…弾き方がわからない。
すぐに『一週間独習法』という本を買ってきて独学でギターを練習したという。
程なくして、彼はバイト先で知り合いになったあがた森魚と一緒に中津川フォークジャンボリーに行って無謀にもサブステージでの飛び入り出演を実現させる。

「あがたはけっこうウケてましたけど、僕はかなり野次られましたよ(笑)当時フォークジャンボリーに来ていたお客さんって、かなり厳しい人たちできたからね。」

ステージから降りると、あがたはレコード会社のディレクターから名刺をもらって、数ヶ月後にデビューを果たす。
誰からも名刺をもらわなかった彼は、自分で『新譜ジャーナル』など脈がありそうなところにデモテープを持ち込んだ。
結果は惨敗。
フォークシンガーになるという夢をひとだび捨てた彼は、故郷の秋田に戻り、学生時代に青春のすべてを捧げたバスケットボールの指導者を目指す。
ところが、わずか一年で「自分は指導者に向いていない。」と言い残して、再び歌うために東京へと舞い戻ってしまう。
土木作業員をしながらライブハウスやレストランで歌わせてもらう生活を送るようになる。

「当時、蒲田に“十八番”っていうイタリアンレストランがありましてね、そこで歌わせてもらっていたんですが、宇崎竜童さんが時々いらしてたんですよ。何がよかったんですかねぇ……宇崎さんが僕の歌を気に入ってくれて、すごく後押ししてくださったんです。」

それをきっかけに彼はとうとう東芝EMIと契約を結び、1974年に「上京の状況」という歌でレコードデビューを果たす。


そして同年、宇崎竜童がアレンジを手掛けた名曲「生きているって言ってみろ」をリリース。
彼はそんなデビュー当時のことをこう振り返る。

「もう有頂天ですよ。生意気盛りの歳(24歳)でしたから、いっぱしの芸能人気取りでね(笑)でも、現実はそう甘くありませんでした。この2枚のレコードがまったく売れなかったんです。いくら宇崎さんのバックアップがあるといっても、レコード会社も商売ですからね…2枚で終わりでした。」


その後、宇崎の力を借りて徳間音工に移籍をする。
そこで『やっと一枚』というタイトルのアルバムを、やっとのことでリリースする。
しかし…結局そのアルバムも売れなかった。
──以降、彼は“売れないまま”歌い続けている。

「売れないと食えないから、ほとんどの人がやめちゃんんですけど、僕はやめなかった。」

彼は、どんなに生活が苦しくても詩を書いて歌い続けてきた。
画家としての顔も持ち、個展を開くようにもなる。
何らかの手段で自己表現をしたくてたまらないのだという。

「すべての曲や作品に共通しているのは“怒り”です。中也も怒っていた。詩とは自分自身と喧嘩することだと言ってますからね。」

「近況ですか?酒、煙草、競輪…何も変わったことはありません。」

【友川カズキ・オフィシャルサイト】
http://kazukitomokawa.com/j/


<参考文献『フォークソング―されどわれらが日々』文藝春秋>

419XJKHYGQL

友川かずき 『ゴールデン☆ベスト』

(徳間ジャパンコミュニケーションズ)






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