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カルメン・マキ物語〜高校中退、寺山修司アングラ劇団との出会い、紅白歌手、そしてロックへの転向〜

2016.09.11

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「高校をやめてどうするの!?」


1968年のある日、彼女の母は語気を強めて言った。
カルメン・マキことマキ・アネット・ラブレイスは当時まだ17歳の高校二年生だった。
ただ意味もなく退学したわけではなかった。

「イラストレーターか役者になりたいという夢があったし、その頃は土方巽(ひじかたたつみ)さんの暗黒舞踏にも興味を持っていたわ。どうすればその夢に近づけるか?まだわからなかったけど…。」


アイルランド人とユダヤ人の血を引くアメリカ人の父と日本人の母との間に神奈川県鎌倉市で生まれた彼女は、都内のお嬢様系ミッションスクールとして有名な私立香蘭女学校高等学校に通っていた。
高校2年で中退し、新宿や渋谷のJAZZ喫茶やディスコに入り浸りだし、いわゆる“不良生活”を始めるようになる。
当時よく行っていた渋谷の百軒店にあった喫茶店で寺山修司主宰の劇団・天井桟敷のポスターを見て興味を覚え…青山の草月ホールでの公演を一人で観に行ったという。
彼女の物語はここから始まった。

──ホールへ入ろうとすると、スタッフらしき人に「天井桟敷 A LABORATORY OF PLAY」と表記されたパンフレットを渡された。
表紙をめくった見開きには次のように書かれていた。

入団の手びき
■怪優奇優侏儒巨人美少女等募集

天井桟敷は制作部、文芸演出部、舞台美術部、演技部員を募集しています。
〔手続き〕
1.写真と履歴書を添えて劇団宛にお申込み下さい。
2.教養、面接試験を実施した上で入団合格者を決定します。
3.合格者は入団金10000円納入と同時に団員の資格を得ます。
4.劇団員としての維持費は月額2000円です。


この当時の1万円(入団金)は、現在では約7万円くらいだろうか…。
興味はあったけど、大金を払ってまで劇団員になろうとは思わなかった。

「くしゃくしゃっと丸めてポケットねじ込んでやったわ(笑)でも、そのあとに観た舞台の内容は素晴らしかった!一生忘れられないって思えるほど深く感動して、涙が止まらなかったのを憶えてるわ。さっきまでただの紙くずにしか思えなかったパンフレットが、まるで夢に向かうための列車の切符のように見えたの。こんなに素晴らしい劇団に入れるならば1万円どころか、2万円だって3万円だって払っていいと思ったわ。」


その夜“入団の手びき”のパンフレットを抱きしめながら帰った彼女は、生まれて初めて履歴書を書き、翌日ポストに投函した。
そして即入団が決まる。
その年の夏、新宿厚生年金会館にて『書を捨てよ、町へ出よう』で初舞台を踏む。
この時はまだ通称名の「伊藤牧」と名乗っていたという。
時を同じくしてCBSソニーの関係者の目に止まり、彼女は歌手として契約する。
芸名の「カルメン・マキ」は、この時期に舞台の練習中にたまたま思いついたものだという。
翌1969年、発足したばかりのCBSソニーレコードよりデビューシングル「時には母のない子のように」で歌手デビューを果たす。
ちなみに担当ディレクターは、後に山口百恵や郷ひろみを育てた酒井政利だった。
年末の『第20回 NHK紅白歌合戦』に出演し、この年のオリコンチャート年間9位をマークするなど、累計でミリオンセラーに達するヒットとなる。


「ヒットはしましたけど、バッシングもずいぶん受けました。とにかく多かったのが“投げやりな唄い方だ”“やる気がない”という意見。でも、しかたなかったんです。作詞をしてくださったのが寺山修司さんで、作曲は寺山さんの右腕だった田中未知さん。だから、歌が素晴らしいのはあたりまえ。その素晴らしい歌をどう唄うか?普通に歌ったら私よりも上手い人はごまんといる。だったらどういうふうに表現すればいいか…自分流の世界を追求した結果が、あの歌い方でした。」


当時、若者達の間ではフォークソングが大流行していて、彼女の存在もそこに付け加えられた。
いわゆる“アングラフォーク”というくくりだった。
もともとアングラという言葉は地下劇団からきていて、それを最初に世に知らしめたのが天井桟敷だった。

「舞台を通じて寺山さんが書いた詞をたくさん唄っていたから世間からはそう扱われたみたいですが…。そんなブームの真っ只中に突然ロックへの転向を宣言したんだから、周囲は驚いてました。もちろんレコード会社もね(笑)」


だが、その転向のきっかけを作ってくれたのはレコード会社だったという。
CBSソニーレコードの社長が「たくさんレコードを売ってくれたご褒美に」と、彼女の18歳の誕生日にレコードプレーヤーとLPレコードをプレゼントしてくれたのだ。
CBSソニーはアメリカとの合併会社だったから、洋楽に強かった。
よって彼女がプレゼントされたレコードはすべて洋楽だった。

「家に持ち帰って聴いたらぶっ飛んじゃいました!だって日本にない音楽ばかりだったんですもの。それから会社に顔を出すたびにレコードをいただいて、家で聴きまくってました。ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ボブ・ディラン…そんな凄い人達の音楽を聴いて、ひっくり返ったり飛び上がったりして“音楽ってこういうもんなんだ!!!”ってあたらめて思ったんです。」


1972年、彼女は“カルメン・マキ&OZ”を結成し、ロックボーカリストとしてのキャリアをスタートさせる。
1975年には1stアルバム『カルメン・マキ&OZ』とシングル「午前1時のスケッチ」を発表。
同年に来日したジェフ・べック・グループやグランド・ファンク・レイルロードのサポーティングアクトを務め、ツアーにも同行する。
1977年ライブ盤を含む4枚のアルバムと3枚のシングルを残してバンドは解散。
その後も“カルメン・マキ&LAFF”、“カルメン・マキ&MOSES”等のバンド活動やソロを通じ日本における女性ロックシンガーの第一人者として長きに渡って活躍し続けてきた。


「ロックに転向してからはドサ回りもずいぶんとやりましたし、地方のキャバレーや場末のステージで罵声も浴びたし、酷い目にもあいましたよ(笑)」


決して順風満帆な道のりではなかった。
現在65歳となっても現役で歌い続けている彼女があるインタビューで語った言葉が印象的だった。

「18歳の頃、本当の音楽に出会ってしまったんですよ。音楽に洗礼を受けた気がしました。そしてロックを選んだんです。長い時を経て…今はジャンルにこだわらずに唄ってます。しいて言えば“カルメン・マキ”というジャンルかな。」


【カルメン・マキ オフィシャルサイト】
http://carmenmaki.com

<参考文献『フォークソング―されどわれらが日々』文藝春秋>

カルメン・マキ 『Good Times,Bad Times~History of Carmen Maki~』

カルメン・マキ 『Good Times,Bad Times~History of Carmen Maki~』

(ユニバーサル ミュージック)

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