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母に捧げるバラード〜沈みかけた海援隊の船を救った“九州弁”の名曲

2023.01.26

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1972年、武田鉄矢率いる海援隊はアルバム『海援隊がゆく』でエレックレコードからデビューを果たす。
この「母に捧げるバラード」は、翌年にリリースされた2ndアルバム『望郷篇』からシングルカットされた楽曲で、彼らにとって起死回生を賭けた歌となった。
デビューして10ヶ月ほど経った1983年の8月のある日、彼らは当時所属していたエレックレコードの担当プロデューサー浅沼勇から呼び出された。

「お前ら、レコードの売り上げがあまりにも悪過ぎる!今、うちの会社は減益経営になりつつある。そんな時期だから、次作が売れないとお前ら田舎に帰ってもらうことになるぞ!」

本人達の予想に反してデビューアルバムはまったく売れず、地元福岡では大いに盛り上がっていたコンサートも東京ではまったくウケなかったという。

「何とかしなければ!」

武田は焦っていた。
ある意味“売り”でもあった博多弁も、当時はステージで喋れば喋るほどシラけるばかりだった。
一年前に故郷の福岡を出た時は、希望と自信に満ちあふれていた彼らだったが…当時は絶望感と焦燥感でいっぱいだったという。
ちょうど同時期に同郷のライバルグループ、チューリップが「心の旅」をヒットさせチャートのトップを獲ったというニュースが飛び込んできた。

「チューリップだけには負けられん!」

意気消沈していた武田は、気を取り直して作詞ノートを開き無我夢中でペンを走らせた。
そして武田は一曲の歌に“すべての想い”を込めて最後の賭けに出た。
東京では博多弁は通用しないと身をもって知っていたので、曲の冒頭部分ではあえて標準語を使った。


そして途中から母親の台詞として九州弁を一気にたたみかけるという斬新な手法を使った。


こうしてできあがった「母に捧げるバラード」は、その年の年の瀬(12月15日)にリリースされ、当初は忘年会用の面白ソングとして注目されたという。
そして翌1974年の初頭にかけて大ヒットとなり、海援隊はその年の年末にエレックレコード所属アーティストでは初めて紅白歌合戦に出場を果たした。


武田がすがりつくような想いで書いたこの歌は、彼を救い、沈みかけていた海援隊の船を華やかな芸能界の大航路へと導いたのだ。
1998年に他界した武田の母・イクは生前、この歌に関してこんなコメントを残している。

「当時私が言っていた言葉をようとっとるんですよ(笑)あれは博多弁って言われるけど、私の故郷の小国町(熊本県阿蘇郡)の言葉との混じり弁です。生っ粋の博多弁じゃないとです。そこんところもようとっとるんですよ(笑)」


<引用元・参考文献『フォーク名曲事典300曲』/富澤一誠(ヤマハミュージックメディア)>




【佐々木モトアキ プロフィール】
https://ameblo.jp/sasakimotoaki/entry-12648985123.html

【TAP the POP佐々木モトアキ執筆記事】
http://www.tapthepop.net/author/sasaki

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