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サン・トワ・マミー〜日本人にも愛されたシャンソンの名曲にまつわるいくつかのエピソード

2017.10.01

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すべてが終わったことは分かっている
僕は君の信頼を失ってしまった
それでもお願いだ
僕にチャンスを与えておくれ
もし僕の後悔を目のあたりに見ながら
君がそっけないままでいたって
人は君を非難できないよね
でもね、許しておくれよ

僕たちが生きてきた楽しい生活の名にかけて
僕たちが失ってしまったと思っている愛の名にかけて
僕の愛しい人、君なしでは時の流れはとても重苦しく
時間も日々も希望のないまま憂鬱に過ぎゆく
僕の愛しい人、君なしでは…
僕の愛しい人、君がいないと僕はあてどもなく彷徨う
僕は途方に暮れて彷徨うよ…真っ黒な空の下

分かるかい?街では何人もの娘たちが僕ら男を誘惑する
彼女たちの愚かしい態度が僕らを追いかけつきまとうんだ
だから僕は帆を君にゆだねるため君へと向かう
君は僕を導いてくれるだろう
君は僕の幸運の星だ

僕の愛しい人、君なしでは時の流れはとても重苦しく
時間も日々も希望のないまま憂鬱に過ぎゆく
僕の愛しい人、君なしでは…
僕の愛しい人、君がいないと僕はあてどもなく彷徨う
僕は途方に暮れて彷徨うよ…真っ黒な空の下


誰もが一度は耳にしたことがあるだろうメランコリックで親しみやすいメロディー。
この「サン・トワ・マミー(Sans Toi M’amie)」は、ベルギーの歌手サルヴァトール・アダモの代表曲の一つ。
※翻訳者の解釈によっては「サン・トワ・マ・ミー」と表記される場合もある 
作詞作曲ともに「雪が降る(Tombe la Neige)」「ろくでなし(Mauvais Garcon)」などのヒット曲と同じくアダモ自身が手がけたもの。
彼がまだ19歳だった1962年に発表されて以来、シャンソンの名曲として人々に愛されつづけてきた歌だ。
歌詞の内容は、アダモ自身の経験がベースになっているらしく「もう一度チャンスをくれないか」と、失恋してもあきらめられない恋人に対する切ない気持ちが描かれている。
日本では越路吹雪が歌唱した岩谷時子による日本語詞が広く親しまれている。
東京オリンピックが開催された1964年に越路(当時40歳)が発表したシングル盤には“愛しているのに”というサブタイトルが付けられていた。
越路はこの歌を自身のリサイタルやステージなどで必ず披露し、「愛の讃歌」や「ラストダンスは私に」などと共に“十八番”として晩年まで唄いつづけたという。
岩谷による訳詞では、越路が歌唱するにあたって主人公を女性に置き換えた大人の女性の恋の歌になっており、アダモ自身の若き日の失恋を描いた原詞と比べると、かなり意訳されたものになっている。


二人の恋は終わったのね
許してさえくれないあなた
さようならと顔も見ないで
去っていった男の心
楽しい夢のような
あのころを思い出せば
サン・トワ・マミー
悲しくて目の前が暗くなる
サン・トワ・マミー

街に出れば男が誘い
ただ意味なくつきまとうけど
このあたしが行きつくとこは
あなたの胸 ほかにないのよ
サン・トワ・マミー
風のように大空をさまよう恋
サン・トワ・マミー
さびしくて目の前が暗くなる
サン・トワ・マミー


ところで、このフランス語タイトルの“Sans Toi M’amie”とはどんな意味なのだろう?
Sansは英語でいうWithout。
ToiはYou。
M’amieはHoneyやBabyやSweetieと同義語だという。
つまりは「僕の愛しい人よ(honey)、君なしでは(Without you)」という解釈が一般的とされている。
19歳にしてこの名曲を書き上げたアダモはどんな生い立ちを持つ歌手なのだろう?
彼は1943年11月1日、イタリアのシチリア島で炭坑夫の長男として生まれた。
彼が4歳になる年に一家はフランス国境に近いベルギーの炭坑町に移住する。
祖父からギターをもらい、14歳から作詞作曲を始める。
15歳で民放ラジオのコンクールに優勝し歌手になる決心を固める。
そして18歳を迎える年にしてフィリップスレコードからデビューするも不発に終わる。
翌年になってポリドールからリリースした曲も売れず、起死回生を賭けてEMI傘下のレコード会社に移籍し「ブルー・ジーンと皮ジャンパー(En Blue Jeans Et Blouson D’Cuir)」を発表するが…大衆はまだ彼の才能に気づくことはなかった。


歌手への夢をあきらめきれない彼は「もう一度チャンスをくれないか」と信頼を失った恋人に対して切望するように…同年の11月にこの「サン・トワ・マミー」を発表する。
同曲は、年をまたいだ翌1963年の初春からヒットチャートを駆け上り大ヒットを記録する。
一躍ベルギーやフランスで国民的歌手となった彼は、その後も自作曲を立て続けにヒットさせ“シャンソン界の貴公子”と呼ばれるようになる。
1965年、若干22歳にしてフランス音楽界の殿堂オランピア劇場で公演を成功させ、その人気を不動のものにする。
時は流れ…アダモが手掛けた数々の名曲を日本に広めた越路吹雪が亡くなったのが1980年(享年56)。
彼女の本葬にはアダモの姿もあったという。
岩谷はアダモに駆け寄り一言「メルシー(ありがとう)」と伝えた。
それまで多くのシャンソンを日本語に訳してきた岩谷だったが…意外にもその時アダモと交わした言葉が生まれて初めて口にしたフランス語だったという。

<参考文献『ロック&ポップス名曲徹底ガイド①』音楽出版社>

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