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Green Green〜アメリカの不安定な社会情勢や既成概念に対する反発から生まれた歌

2018.06.17

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グリーングリーン 噂に聞くその地は
ずっと遠くの丘の向こうにあるんだ
グリーングリーン 僕は旅立つよ
緑輝く希望の地へ…

生まれたその日にママに言ったさ
僕がいなくなっても泣かないでって
僕を落ち着かせる事が出来る女性なんていないんだ
僕はただ彷徨い続けるだけ…歌いながら



この「Green Green」は、アメリカの男女混成の10人組フォークグループ、ニュー・クリスティ・ミンストレルズが1963年に発表した楽曲だ。
作詞作曲は、グループの中心メンバーだったバリー・マクガイアとランディ・スパークスによるもの。
リードボーカルのバリー・マクガイアは、1965年にソロキャリアをスタートさせデビューシングル「Eve Of Destruction(明日なき世界)」で全米No.1を獲得する。
核戦争による人類の破滅の恐怖を描いたこの曲は、ラブソングばかりがヒットチャートを賑わせていた当時のミュージックシーンに大きな衝撃を与え、その後、若者たちの関心を社会問題や政治に向けさせるきっかけを作ったと言われている。




当時のアメリカといえば…人種差別問題への関心が高まりつつあった時期。
「Green Green」が発表された1963年は、エイブラハム・リンカーン大統領が奴隷解放宣言を行った年からちょうど100周年を迎える記念の年でもあった。
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師がワシントン大行進の場で、「I have a dream(私には夢がある)」という歴史的な演説を行った年でもある。
アメリカは、この頃から徐々にヴェトナムへ軍事介入し始め…以降、10年以上も続く泥沼の戦争を経験することとなる。
その“戦う理由”も不明確なまま続いた戦争がもたらした犠牲は、あまりにも大きかった。
アメリカ側の戦死者5万8千人、戦傷者 30万人。
ヴェトナム側の戦死傷者300万人、民間人の被害400万人超、行方不明者30万人超、枯れ葉剤の被害者100万人、精神病者600万人、難民1千万人…そしてヴェトナムに投下された爆弾量1400万トンという記録が残っている。
当時、アメリカ国内で巻き起こったヴェトナム戦争への反対運動、そして公民権運動から火がついた学生運動は、既存の体制・文化に対して反発する風潮を次々と生み出していった。
こうした社会の動きの中で、伝統・制度などの既成の価値観に縛られた生き方を否定することを信条とし、自然への回帰を提唱する“ヒッピー”と呼ばれる若者達が爆発的に急増した。
あのスティーブジョブスや元大統領のビル・クリントン、元副大統領のアル・ゴアもヒッピー経験者として知られている。
そんな時代に誕生した「Green Green」の歌詞には、当時のヒッピー文化が目指していた自然回帰などの社会的メッセージが込められているという。

予言しておくよ…僕の生き方を決める奴なんて
この世界には誰もいないんだ
僕は愛に満ちた放浪者さ
ねぇ相棒!10セント貸してくれないか?
そして僕の泣き言を聞いてよ…

太陽が沈んだとしても気にしないさ
そこでは疲れた頭を横たえることができる
グリーングリーン 緑あふれる希望の地よ
そこは深い谷にあるの?
険しい道の果てにあるの?
その地こそが僕の落ち着く場所なんだ
気楽にいこうぜ!

グリーングリーン 噂に聞くその地は
ずっと遠くの丘の向こうにあるんだ
グリーングリーン 僕は旅立つよ
緑輝く希望の地へ…



この“ヒッピー”という言葉は、60年代後半以降、日本ではファッション的なものとして認知されるようになる。
「Green Green」は、アメリカの不安定な社会情勢や既成概念に対する反発から生まれた歌だったのだが…海を渡って日本に入ってきた時には(ピッピーと同じく)いささか原曲とは違うニュアンスで浸透してゆくこととなる。


1967年4月からNHK『みんなのうた』で放送されて以来、爽やかで健全な国民的ソングとして小中学校の音楽の授業で歌われるなどしながら、現在も幅広い世代に愛され続けている。
原詞を読めば、ある種の哀しみさえ感じられるこの曲の“日本語版”を手掛けたのは片岡輝という詩人・児童文学者だった。
片岡は1933年中国大連生まれで少年期を北京で過ごしたという。
帰国後は慶応義塾大学卒業後、TBSに入社し、各番組のディレクター及びプロデューサーを経て、奇しくもこの「Green Green」がアメリカで発表された1963年よりフリーとなる。
その後は、NHK関係の企画・演出、作詞・訳詞等に携わり、現在東京家政大学家政学部の教授を務めている。
7番まで存在するという日本語の歌詞は、原詞の翻訳ではなく、片岡が独自に作詞したものである。
原詞の「ママ」が、日本語版で「パパ」になってしまった理由については、片岡は教育芸術社のインタビューでこんな風に語っている。

「それまでの日本の歌の中には、親子が心を通わせるような、特にお父さんをテーマにした曲があまりないなぁと思ったんですよ。あの歌詞は、全く私の作詞でして…訳詞ではないんです。」

インタビューによれば、片岡はとにかくパパが登場する親子の歌が作りたかったという。そんな時、ママが登場するアメリカのヒット曲が片岡の耳に入り、ある種のインスピレーションが沸き起こったのだ。
さらに片岡は、この歌が持つ物語性について問われると、言葉少なくこう語っている。

「読み手がどう解釈するかは自由です。」

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