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Hurdy Gurdy Man〜“英国のボブ・ディラン”と称された男ドノヴァンがジミヘンのために書き下ろしたという歌

2018.06.24

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1968年4月4日、“キング牧師”の名で愛されたアフリカ系アメリカ人公民権運動の指導者マーティン・ルーサー・キング・ジュニアが、テネシー州メンフィスにあるメイソン・テンプルで凶弾に倒れた。
彼が口にした最期の言葉は、同志ジェシー・ジャクソン(公民権活動家でキリスト教バプティスト派の牧師)に向けたものだった。

「今夜、必ず“Precious Lord(尊き主よ)”を歌ってくれ。しっかり歌ってくれよ。」


彼の死から数時間も経たないうちに、アメリカ国内の街のあちこちで多数の暴動が起こった。
デトロイトでは二人の警官が撃たれ、フロリダでは白人の青年が焼かれて命を落とした。
ホワイトハウスの周囲300ヤード以内のところでは、放火や強奪が多発したという。
同年、労働条件への不満や大国化するアメリカへの反発を理由に、パリやロンドンでも暴動やデモ運動が相次いだという。


「英国のボブ・ディラン」と称されてデビューしたドノヴァンは、デモや暴動という“時代の嵐”が吹き荒れた1968年に、こんなメッセージと共に一曲の歌を発表した。

「抗議行動は激しい扇動ではなく、あくまでも怒りを静めたり苦しみを和らげるものでなくてはならないと感じている。」


いつまでも漂う眠りの中
宇宙の星のように放り出され
ひと目みようと目を見開くと
静かに見つめ 海辺にいる自分に気づく
その時ハーディー・ガーディー・マンが
愛の唄を歌いながらやってきた



ドノヴァンが1968年に発表した「Hurdy Gurdy Man」は、6作目のスタジオアルバム『The Hurdy Gurdy Man』の主軸となる楽曲だった。
シングル盤はアメリカのビルボードチャートで5位、そしてイギリスのUKシングルスチャートでは4位まで駆け上った。
当時、ドノヴァンはメディアに対して皮肉たっぷりにこんなコメントを口にしている。

「マスコミは僕の歌を世界の出来事とは結びつけようとせずに、まるで僕が“おとぎの国で夢みているような曲を作った”などと誌面に書きたてた。」

この歌が収録されたアルバムのライナーには、興味深いエピソードが書かれている。

「1968年、ドノヴァンは本作をレコーディングした。ギター、ベース、ドラムスにはなんとその後にレッド・ツェッペリンとなる、ジミー・ペイジ、ジョン・ポール・ジョーンズ、ジョン・ボーナムの3人が参加している。」

ロックファンにとっては、これだけでもテンションの上がることなのだが…さらに読み進めると意外な裏話があるというのだ。
ドノヴァン自身が語るところによると…この「Hurdy Gurdy Man」という曲は、もともとジミ・ヘンドリックスに歌ってもらおうと思って創作したというのだ。
結局プロデューサーに“この曲は自分で歌った方がいい!シングル曲だ!”と言われ、
自分でレコーディングすることになったが“それじゃ、ギターだけでもジミにプレーしてもらおう!”という話になって…連絡を取ったら“ツアー中で参加できない”という返事が届く。
そんな経緯からジミの代わりにジミー(ペイジ)に声がかかり、その仲間だったジョン・ポール、そしてボンゾが参加するに至ったというのだ。


ドノヴァンといえば…1966年にシタールをバックにレコーディングした「Sunshine Superman」の世界的ヒットで、サイケデリックカルチャーやフラワームーブメントの中心的存在となったことでも知られている。
以降、アイルランドの詩人・劇作家W.B.イェイツや、『不思議の国のアリス』著者ルイス・キャロルへの傾倒のもと、幻想的な音楽作品を多数発表する。
ビートルズのメンバーとも親交が深く、彼らは共にインドのマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーのもとで瞑想を学ぶ。
このインドでの体験が、彼の思想や創作に大きな影響を与え続けることとなる。
「Hurdy Gurdy Man」も、インドで作られた曲だったという。

<引用元・参考文献『ハーディ・ガーディ・マン』ドノヴァン(著)、 渚十吾 (監修)、池田耀子(翻訳)/工作舎>

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