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ジョーン・バエズ少女時代①〜悲惨なバグダッドで芽生えた正義感、肌の色の違いで受けた差別、音楽への目覚め

2018.10.21

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1941年1月9日、彼女はニューヨークにあるスタテンアイランドで生まれた。
三姉妹の次女として誕生した彼女には“ジョーン・シャンドス”という名前がつけられた。
後にスタンフォードやマサチューセッツ工科大学で教鞭をとるメキシコ系物理学者の父と、スコットランド出身の母との間に生まれた彼女。
物理学者だった父親のアルバートは、軍需産業への協力要請を拒否した人物でもあった。
父親の毅然とした姿勢は、彼女が歌手となって貫き続けている公民権運動や反戦活動へ大きな影響を及ぼしたという。
ニューヨーク出身の彼女の血には、父方からのラテン的情熱と、母方からの受け継いだ忍耐強さが混在して流れていた。
肌の色などで差別を受け、人知れず辛い少女時代を過ごした彼女だったが、信仰心豊かな両親のもとで普通の女の子として成長する。
その透明感のある美しいソプラノ(歌声)で、小さい頃から周りの大人達を感心させていたという。
彼女は自伝の冒頭で、生い立ちについてこんな記憶を綴っている。

「妹のミミが生まれる前に、私たち家族はスタンフォードの地に移り住んだ。父とお腹の大きな母、そして姉のポーリンと私。それは父が数学の修士号を取得するための引っ越しだった。私たちの新しい家は、広々とした畑の向かいにある場所に建っていたわ。
美しくて小さな家だった。畑の前で自転車にまたがっている父母の写真を大切にとってあるわ。二人は若く幸せそうで、瞳には太陽が輝き、母のおさげ髪のほつれ毛が風に舞って父の額にかかっている…」


一家は短い時間をそこで過ごし、三女のミミが生まれて間もなく、同じ町にある私立学校の寮の住み込み管理人となる。
彼女はその学校に併設されている幼稚園に通っていた。

「幼稚園は嫌いだった。すぐに抜け出して、同じ敷地内にある家に逃げ込んでいたのを憶えているわ。家に帰り着くと、私はお人形とティーパーティーを開き、三匹のこぶたの本に落書きをし、時には母の家事を手伝ったりもしたわ。外にいるときも私はひとり遊びが好きだった。樫の木に登ったり、レタスを摘んで食べたり、頭の中で描いた童話の主人公と散歩することもあったわ。」


住み込みの寮(下宿屋)での生活は2年続き、ついに父親は修士号になるための必要な単位を取り終える。
当時アメリカでは原子力爆弾の開発が行なわれており、彼女の父はすでに大気中に放出された原子力エネルギーの持つ潜在的な破壊力に気づいていたという。
ニューヨーク州にあるコーネル大学で物理学の研究員として勤めることとなった父に付いて、一家はクラレンス・センターという人口わずか800人の小さな町へと移り住むこととなった。

「楓並木にある二階建ての家だったわ。下宿屋の生活から一変、穏やかな生活になったわ。姉と私はピアノを習い始めた。母が夕食のしながら鼻歌を唄い、私は台所の大きなラジオで連続劇“ユーコン川のプレストン軍曹”や“ジャック・アームストロング”を聴くのが常だった。小さな学校に通っていたわ。その頃にはもう授業を抜け出して家に逃げ帰ったりはしなくなっていた。」


そこでの生活も短く…次に一家は南カリフォルニアに引っ越すこととなる。
やはり父親の仕事の都合だった。
そこで5年間暮した後に、今度は父親が中東イラクのバグダッドの大学で物理を教え、研究所を作る仕事に携わることとなる。
一家はアメリカを離れ、バグダッドへと移住する。

「社会の正義に対する私の情熱が生まれたのは、おそらくバグダッドでのことだったと思う。その地で私たちは、動物が叩き殺されたり、人々がゴミ箱の残飯をあさったり、足のない子供たちがダンボールの上にのってズルズルと移動する姿を日常的に目にすることとなったの。彼らはぱっくり開いた傷口にハエを群がらせながらも、一心に物乞いをしていたわ。」


1951年(当時10歳)、一家は再びアメリカへ戻ってカリフォルニア州のレッドランズで暮らすこととなる。
二年後、その地で中学校に通うこととなった彼女は初めて人種の問題を体感することとなる。

「私はメキシコ人の名前と肌と髪を持っていた。だけどスペイン語が話せるわけでもない。その町では、白人はメキシコ人を嫌っていたし、メキシコ人は英語を話す人間を嫌っていた。私は白人からもメキシコ人からも嫌われる対象となったの。私は政治にも強い関心があり、軍備拡大に対して反対する意見を周囲に話したりしていた。クラスメイトの多くは両親から“ジョーンと話してはいけない”と言われていたらしい。姉のポーリンは私と違い白い肌をしていたわ。彼女は社会問題に対して自分の意見を言うことなどしなかった。妹のミミもまた私とは違う肌の色だったため、人前で私のことを避けるようになった。その行為はどんなに私の平和主義をもっても許すことができなかった。私の声や感性が磨かれるきっかけとなったのは“人と違っている”という孤独感だった。」


その中学校で、彼女は合唱団に入って歌い始めた。
アルト、メゾソプラノ、ソプラノ、テノール…必要に応じて、どのパートも担当していたという。
音のピッチを安定させる訓練、ヴィブラートの練習など、彼女はまじめに取り組んでいた。
幼い頃にはじめたピアノ、そして合唱、さらに彼女は父親の知り合いの手解きを受けてウクレレの演奏も始めていた。
当時、ポピュラー音楽のほとんどが、カントリー&ウェスタンとリズム&ブルースだったという。
彼女はその90%の曲で使われている4つのコードをすでにマスターしていた。

「私はG以外のコードで唄うときのことを考えて、他のいつくかのコードも練習していたの。当時の私のお気に入りの曲は、ジミー・ロジャースの“In the Jailhouse Now”と、ハンク・ウィリアムズの“Your Cheatin’ Heart”だったわ。」





<参考文献『ジョーン・バエズ自伝―WE SHALL OVERCOME』ジョーン・バエズ (著)矢沢寛(翻訳)佐藤ひろみ(翻訳)/ 晶文社>


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