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ロッド・スチュワート少年時代②〜サッカー選手としての挫折、転々とする仕事、ディランの音楽に受けた衝撃

2018.12.09

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1950年代から60年代の初頭、イギリスで生まれた労働者階級の子供たちにとって、サッカー選手になるという道は“限られた未来への抜け道”だった。

「優秀な学力もなく、コネもない俺にとってサッカーは唯一の“希望”だったんだ。」


15歳になったロッドは、音楽の楽しさに目覚めつつも、イングランドのプロリーグ所属のブレントフォード・フットボールクラブにその才能を見出されて“見習い”として契約を交わす。
しかし、彼を待っていたのはスパイク磨きや更衣室の清掃の日々だった。
彼はそんな雑用ばかりの“プロ見習い生活”に見切りをつけて…たった二週間でイングランドのサッカー界から姿を消すこととなる。
当時のことを振り返り、彼はこんな言葉を残している。

「真実を話しておくよ。俺は更衣室の清掃を一度も馬鹿にしたことはない。当時、クラブで俺がサッカーの才能をまったく披露しなかったわけじゃない。ほんの一瞬であれ、ブレンドフォードが俺に興味を持つぐらいは見せたつもりだ。」


サッカー選手への道を閉ざした彼を待っていたのは“壁紙”だった。
父親は見つけてきた壁紙会社でのスクリーン印刷工の仕事に就くこととなる。

「給料はよかったよ。自分の生活費分として週給の半分を親に渡しても、郵便局に口座を持てるぐらいにもらっていたよ。だけど子供の頃に色弱と診断されていた俺は、壁紙の仕事にも未来を見出すことができなかった。」


彼が次に就いた仕事は葬儀用の額縁をはめ込む仕事だったが…これも短命に終わった。
次に電線管に電線を通す電気工の手伝いをすることとなり、毎週土曜日になるとハイゲート共同墓地へと行き、区画を測る作業をしていたという。

「この頃俺が墓地で働いていたことが、あとあとになって“ロッド・スチュワートは墓掘り人だった”という都市伝説になったんだ。人の経歴において謎めいた部分があるのはいいけど、事実でないことはちゃんと言っておかないとな。」


学校の制服から解放され、仕事で金を稼ぐようになった彼は、十代の後半からファッションに興味を持つようなる。

「1950年代を過ぎて、俺のような小銭を持っているような十代が台頭してくると、ヤングアダルト向けの服が独自の流行りかたを始めて、とりわけロンドンは急速にファッションの頂点へと駆け上がっていったんだ。」


それは1960年代中盤のロンドンで花火のように鮮やかに一瞬スパークした“スウィンギング・ロンドン”への前兆だったのかもしれない。

「あの年齢で、あの時代にロンドンで過ごせたことは最高だったよ。お洒落でいい服が安く手に入った。戦後だから革が貴重で少なくて、その代わりに圧縮したボール紙で作られた靴なんかがあったよ。形も斬新で色もカラフルで最高にお洒落だったけど、雨の日にうっかり水たまりに足を踏み入れようもんなら目も当てられなかったよ(笑)」


1962年、17歳になった彼は一枚のレコードから大きな衝撃を受ける。
ボブ・ディランのデビューアルバム『Bob Dylan』を聴いたその日、彼の音楽人生の扉が開いたのだ。

「大地を揺るがすような衝撃だったよ。あの一枚が俺の人生を変え、俺の周りの空気を一変させてしまったんだ。」



「“Talkin’ New York”を聴いた瞬間、走ってその場所まで行きたくなったよ。広くて開放的なアメリカという可能性に満ちた世界を体験したくてね。後にも先にも、ディランの音楽ほど俺に影響を与えてくれたものはないよ。」



子供の頃までさかのぼれば…彼に影響を与えていた音楽、レコードは他にもあった。
1958年、彼が13歳の頃に聴いたエディ・コクランの名曲「C’mon Everybody」、そしてサム・クックの「You Send Me」には特別な思い入れがあるという。

「おふくろがよくラジオから流れる彼らの歌を聴いていたんだ。人前で歌い始めた頃はコクランの歌い方を真似ようとしたこともあったよ。サム・クックは俺が歌手を目指そうとした際に大きな目標となった人だ。」





<引用元・参考文献『ロッド・スチュワート自伝』ロッド・スチュワート (著)中川泉 (翻訳)/ サンクチュアリ出版>

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