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ジーン・シモンズ少年時代①〜ナチスに迫害された母、イスラエルでの極貧生活、カウボーイへの憧れ

2019.02.17

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ジーン・シモンズ。
70年代に一世を風靡したハードロックバンドKISSのベーシスト兼ヴォーカリストとして活躍してきた“ロック界の怪人”だ。
1974年にデビューして以来、KISSの楽曲の作詞・作曲を多く担当し、コンサートにおいては火吹きや血を吐くパフォーマンスなど、演出面でも大きく貢献してきた才人としても知られている。
その他、プロデューサーや俳優としても活動の場を広げながら、実業家としての顔も持っている。
KISSのライセンス商品、権利管理、分配などを担当しており、他にも富裕層顧客を対象にした保険会社など数々の事業を手がけているという。
ちなみに(現在までに)KISSのライセンス商品は約3000点あり、コンドームから棺桶まで揃っているというから驚きだ。
今回は、そんな彼が少年時代にどんな日々を送っていたのか?その生い立ちからロックに目覚めるまでを「前編」「後編」に渡ってご紹介します。



1949年8月25日、彼はイスラエルにあるハイファという町の病院で産声をあげた。
その元気な男の子の赤ちゃんには“チャイム・ウィッツ”という名前がつけられた。
チャイムとはヘブライ語で「生命」を意味するもので、ウィッツは父親の姓だった。
彼が生まれるちょうど一年前、およそ1億人にものぼるアラブ人が激しく反対したにもかかわらず…イスラエルが建国宣言をする。
そんな中、彼はハンガリー系ユダヤ人の子として生まれる。
母親はナチスの強制収容所にいたことがあるという。
彼は自伝の中で、自分の生まれた環境や時代背景を鮮明に綴っている。

「イスラエル建国戦闘は、第二次世界大戦の惨禍の中で起こったものだ。ナチスドイツはヨーロッパから、いや、やがて地球上からユダヤ人を抹殺しようとしていた。母の両親、すなわち俺にとっての祖父母は、ハンガリー在住のユダヤ人だった。母はハンガリーで育った。14歳の時に強制収容所に送られ、家族、親戚のほとんどがガス室に放り込まれてゆく様を目の当たりにしたらしい。強制収容所長夫人付きの美容師を務めさせられた母は、なんとか生き延びることができたんだ。」



彼が生まれたのはハイファの病院だったが、当時一家はその近郊のティラト・ハカルメルという村に住んでいた。
旧約聖書に出てくるカルメル山にちなんだ地名だ。
彼はイスラエルの学校に通い、その地にまつわる歴史、宗教、政治を学んだという。

「旧約聖書に関する授業もあった。まったく信じがたいような出来事が、自分が今住んでいる国で起こったのだと教えられていた。教科書には、すべての生命の始まりについて述べられたんだ。アブラハム、イサク、ヤコブ、ノアの洪水と続く物語。自分がイスラエルに居住するユダヤ人だということを特に意識していたわけではない。周囲の人がほぼ同胞だったから、それを意識することはなかった。街を歩けばアラブ人が歩いていた。キリスト教徒もいた。自分がイスラエル人だということ以外は、何も思っていなかったよ。」


人種、民族、宗教は多種多様であるということは、子供の頃の彼にはあまり理解できていなかった。
ただ一つ、その村では様々な言語が話されていたことだけは彼にもわかっていたという。
イスラエルに住むユダヤ人には、ヘブライ語を話す者がいて、また、ヘブライ語とドイツ語が融合した形のヨーロッパ言語の一つであるイディッシュ語を話す者もいた。
彼の一家の第一言語はハンガリー語だった。
そんな複雑な環境の中、幼い彼はいつしかヘブライ語、ハンガリー語、トルコ語、スペイン語の4カ国語を話すことができるようになる。

「ある日、母が映画に連れて行ってくれた。たしか俺が4歳の頃だったと思う。それまではアメリカなどイスラエル以外の世界を意識したことはなかった。その頃はテレビなどなく、ラジオでさえたまにしか聴いたことがなかったんだ。入場料を払う余裕がなかったので、会場の外で母は俺を膝の上に抱えて映画を観せてくれた。屋外に設置された巨大なスクリーンに、フィルムが映写されると、俺は腰を抜かすほど驚いたよ。後になって知ったんだけど、その作品はジェームス・スチュアートとジェフ・チャンドラーが出演していた“折れた矢”という映画だった。迫りくるカウボーイとネイティヴアメリカンの映像に、何もわからずにただひたすら目を丸くしていたんだ。神秘の世界、大西部に、アウトローとヒーローが踊っていた。その日からカウボーイは、俺にとって最初のスーパーヒーローになった。この時に得たものすべて、すなわち、ヒーローという概念、映像マジックへのアプローチといったものが、後の俺のヴィジョンを構成する上で重要な柱となっていったんだ。」



彼の父親と母親は、最初から別れていたような関係だったという。
結婚生活がうまく行かなかったのには、単純にして深い理由があった。
父親は家計を支える能力に欠けていたのだ。
現実主義者ではなく、夢想主義者だった。
木工職人として働いていたものの、自分が気に入った家具しか作らずに、誰も好まない物を売ろうとしているのだから…まったくお金になることはなかったという。

「当然、差し迫った問題に突き当たることとなる。すなわち生活費はどうするのか?父はいつも無言だった。母は問い続け、喧嘩が絶えることはなかった。両親がうまくいかなければ、すべてが悪い方向へ向かってしまう。父は仕事を探すと言って家を出た。父が出てゆくと、母は喫茶店で働くようになった。」


母子二人だけの生活の中で、母親は彼を育てることにすべての力を尽くした。
彼が二十歳近くになるまで、母親は再婚もしなかったという。
暮らしは貧しかった。
肉は配給制で週に一度しか手に入らない。
牛乳でさえ好きな時に買えず、配給切符がなければ口にすることができなかった。
シャワーは冷たい水。
トイレットペーパーというものはなく、ボロ布を洗って何度も使っていたという。

「だけど貧しさはほとんど気にならなかったよ。住んでいたアパートの壁という壁には弾痕があった。イスラエル独立戦争(第一次中東戦争)が残した爪痕だった。そこはアラブ諸国連盟とイスラエルが戦火を交え、市街戦が繰り広げられた街だった。そこら中にあった銃弾でできた穴も、なんとも思わなかったよ。」


<引用元・参考文献『KISS AND MAKE‐UP―ジーン・シモンズ自伝』ジーン・シモンズ(著)大谷淳(翻訳)/シンコーミュージック>

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