「本物の音楽」が持つ“繋がり”や“物語”を毎日コラム配信

TAP the POP

TAP the NEWS

エルトン・ジョン成功への扉〜ステージネームの誕生によって新たに踏み出した新境地

2019.07.28

Pocket
LINEで送る


『ニュー・ミュージカル・エクスプレス』紙に掲載されていた小さな募集広告をきっかけに、二十歳のレジナルド・ドワイト(後にエルトン・ジョンというステージネームに改名)がバーニー・トーピンと初めて顔を合わせたのは、ロンドンにあるリバティレコーズのスタジオだった。
当時まだ17歳だったバーニーが表現する詞世界は、ボブ・ディランやビートルズなどに代表されるポピュラー音楽の歌詞にピッタリで、たちまち二人は打ち解け合ったという。
彼らはモータウンサウンドやビートルズ、ボブ・ディランなどの音楽や経歴に詳しい点でも意気投合した。
二人は会ったその日のうちにソングライティングコンビを組むことを約束する。
1967年、彼らはレコード会社DJM(ディック・ジェームズ・ミュージック)の経営者ディック・ジェームズに才能を認められ、プロのソングライターとしてのキャリアをスタートさせることとなる。
ディック・ジェームズといえば、当時イギリスのポップミュージック界の大物で、ビートルズを発見したことでも有名な人物だった。
レジとバーニーのコンビは徐々にレパートリーを増やしてゆき、ロンドンの音楽関係者も彼らの存在にだんだんと注目し始めた。
レジに歌手としての才能も見出していたディック・ジェームズは、遂に彼らのデビューシングルを発売することに同意した。
そこで引っ掛かったのがレジナルド・ドワイトという名前だった。
ディック・ジェームズは言った。

「その名前にはポップスターとしての魅力を感じない。」


1968年、二人のソングライトコンビによる記念すべき初シングル「I’ve Been Loving You」がリリースされた。
売り上げは惨憺たる結果だったが、そのシングル盤はレジにとって重要なターニングポイントとなった。
レコードジャケットのアーティスト名には“エルトン・ジョン”と書かれており、まさに心機一転の出発となった。
エルトン・ジョンというステージネームは、以前彼が在籍したバンド、ブルーソロジー時代の仲間エルトン・ディーンとロング・ジョン・ボルドリーの名前をモチーフにして付けた名前だという。


彼は新しい名前について当時こんな風に語っている。

「エルトン・ジョンという名前は、内気なレジナルド・ドワイトがずっと欲しがっていた名前だったんだ。」


続いて発売された2ndシングルもセールスは芳しくなかったが、ラジオ局やディスクジョッキー、音楽ライターたちからは好評だったという。
ディック・ジェームズは、エルトンの1stアルバムに期待をかけた。
1969年6月に発売されたデビューアルバム『Empty Sky(エルトン・ジョンの肖像)』は、すべてエルトンによる作曲、バーニーによる作詞のオリジナル作品が収録された。
セールスは当時2000枚だったが、無名の歌手のアルバムとしては悪い結果ではなかった。


「あの1stアルバムの制作に取り掛かった頃の熱意といったら、言葉では説明できないほどだったよ。完成させた時は“こんなに素晴らしいアルバムはない”とまで思ったよ。」


1970年代に入ると、ジェイムズ・テイラー、キャロル・キング、ギルバート・オサリバン、ビリー・ジョエルなど新世代のシンガーソングライター達が次々と頭角を現し始めた。
そしてビートルズの解散はポップミュージック界にとって大きな衝撃であり、重大な分岐点にもなった。
60年代がギター全盛の時代だったとすれば、エルトンやキャロル・キングやビリー・ジョエルのようにピアノを主体とする作曲スタイルは70年代ポップスの特徴の一つとも言えるだろう。
そんな新時代の幕開けとなった1970年に発表されたエルトンの2ndアルバムには、6000ポンドもの予算がかけられ、55時間の時間が費やされたという。
この巨額な予算によって、エルトンとバーニーの若いコンビは、あのデヴィッド・ボウイのヒット作『Space Oddity』(1969年)を手がけたガス・ダッジョンにプロデュースを依頼する。
さらには同作でストリングスアレンジャー/編曲を担当していたポール・バックマスターのスケジュールも押さえた。
大きな期待を背負いながら完成した2ndアルバム『Elton John(僕の歌は君の歌)』は、全英4位を記録するヒット作となった。


この時期から彼はソロ名義でのコンサート活動もスタートさせる。
それまでは肥満体質で自分に自信が持てなかったが、ダイエットを重ねながら徐々に派手な衣装やアクションを“売り”にしてゆく。
歌いながらピアノの椅子を蹴とばしたり、立ち上がって派手に鍵盤を叩いたり、ステージ狭しと暴れまわるパフォーマンスは、それまでの“内気なレジナルド・ドワイト”を捨て去るための儀式だったのかもしれない…



<引用元・参考文献『伝記 世界の作曲家(14)エルトンジョン』ジョン・オマホニー(著)橘高弓枝(翻訳)/偕成社>

Pocket
LINEで送る

あなたにおすすめ

関連するコラム

[TAP the NEWS]の最新コラム

SNSでも配信中

Pagetop ↑

トップページへ