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マリア・カラス少女時代〜愛情の薄かった母親との確執、みにくいアヒルの子をプリマドンナへと変身させた恩師との出会い

2019.10.20

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「お母さん、どうして私のことを愛してくれないの?」


1923年12月2日、彼女はギリシャ系移民の子としてニューヨークで生まれた。
薬局を営む父ジョージと母エヴァンゲリアの次女だった彼女は、生後しばらく母親の腕に抱かれることはなかったという。
母親は、彼女の兄にあたる息子を3歳で亡くした後の妊娠だったこともあり、精神的に不安定で、生まれてくる子は男児だと信じていた。
姉ジャッキーの次に男の子を期待していた母親は、次女(彼女)の誕生を素直に喜べず、出生届も期限を過ぎてから提出したという。
12月2日という生年月日は、出産に立ち会った医師の証言であり、彼女はこちらの日付けを信じて毎年12月2日に誕生日を祝っていた。
しかし、ニューヨーク市にはこの日付けでの記録がなく、母親は12月4日が誕生日だと言って譲らなかった。
後に「誕生日を曖昧にされた理由は、母の嫌がらせだった」と、彼女は証言している。
世界恐慌の影響もあり、彼女が幼かった頃の一家はとても貧しい暮らしぶりだったという。
野心的だった母親は、当時子役として大活躍していたシャーリー・テンプルのように我が子を芸能の道で成功させることを夢見ていた。
そして娘達が音楽で世に出ることを望み、ピアノや声楽を学ばせる。

「太らないと声が良くならない。」


母親は彼女に砂糖菓子などの甘い物を常に与え、12歳になる頃の体重は80キロを超えていたという。
見た目が美しかった姉とことあるごとに比較され、報われることのない日々を過ごしていた彼女は、常に姉妹間に愛情の差があることを幼児期から悟っていた。

「肥満と極度の近眼がコンプレックスでした。姉は可愛い女の子でしたが、私は太っていて吹き出物だらけでした。年齢の割にはずいぶん老けて見えて…そう、まるでみにくいアヒルの子でした。」


1937年、彼女が13歳の時に両親が離婚をしてしまう。
母親は二人の娘達を連れてニューヨークを離れ、故郷ギリシャに帰ることとなる。
彼女は父親と離れることに胸を痛めたという。
自分に愛情の薄い母親よりも、父親への思いの方が大きかったのだ。

「人生は苦悩です。生きることは逃げ場のない闘いです。」


ギリシャに移住した彼女は、母親の勧めでアテネ音楽院に入学する。
13歳の彼女は17歳からしか入学できない学校に年齢を偽って合格したという。
そこで彼女は運命的な出会いを果たすこととなる。
アテネ音楽院で彼女が師事したのは、有名なスペイン人ソプラノ歌手エルビラ・デ・イダルゴだった。
エルビラは彼女と会った時のことを鮮明に憶えていた。

「よりによってこの子が歌手になりたいなんて、とんだお笑いぐさでした。とても太っていて、分厚いメガネをかけていました。着ているものもサイズが大きく不恰好で、教室にいても自分が何をしていいのかわからずに爪を噛みながらキョロキョロしている子でした。だけど、彼女の歌声を聴いた瞬間、私はすっかり魅了されてしまいました。」


彼女はエルビラの前でカール・マリア・フォン・ウェーバー《オベロン》第2幕からレチアのアリア「海よ、巨大な怪物よ」を歌って聴かせた。


「彼女の歌は、激しく流れ落ちる滝の音を聴くようでした。それはまだ十分にはコントロールできてないのですが、ドラマと情感に満ち溢れるものでした。私は目を閉じて聴き入り、こんな素材を手塩にかけ、完璧になるまで育てあげることがどんなに喜ばしいことか想像していました。」


その日から、二人の密な関係が始まり、彼女はオペラ歌手になるべく本格的なレッスンをスタートさせることとなった。

「先生のレッスンは毎日朝の10時に始まり、お昼はサンドイッチ程度のものをつまんで、夜遅くまで続きました。高・低音域への入念な拡張を繰り返す発声練習はまるで筋力トレーニングのようでした。声帯まわりの筋肉を使い、鍛えることに喜びを覚えていました。母と暮らす家に早く帰りたいなんて一度も思ったことはありませんでした。」


エルビラと関係が深くなるに連れて、彼女は母親に対して反抗的な態度をとるようになったという。
エルビラは彼女に音楽的な訓練だけではなく、実生活の援助を通じても“みにくいアヒルの子”を変え始めていた。
舞台での身のこなし、洋服の着こなし、自己コントロールの仕方まで教え込んだ。
後に母親は自著でこんな告白をしている。

「私はもはや娘が有名になることしか望まなかった。」


それとは違いエルビラは、彼女を導き、幼少期の彼女が決して持ちえなかった“自信”“を与えたのだ。
やがて音楽院を卒業した彼女は、“世界最高のプリマドンナ”と言われるまでの階段を一気に駆け上がってゆく…


<引用元・参考文献『マリア・カラス (叢書・20世紀の芸術と文学)』ユルゲン・ケスティング(著)鳴海史生(翻訳)/アルファベータ>


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