TAP the ROOTS

「懐かしき恋人の歌」~ダン・フォーゲルバーグと雪の日の邂逅

2016.12.29

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 クリスマス・イヴにコンサートがブッキングされていないことは、ひとつの奇跡だった。少なくとも、レコード・デビューして以来、イヴやクリスマスの日には、いつもどこかの街のステージに立ってきた。だが、その年は何故か、ぽっかりとスケジュールが空いていたのだ。彼は生まれ育った故郷で、ひとり静かに過ごすことにした。
 その日は朝から雪が舞っていた。静かな、聖なる冬の日を祝うため、彼は食料品ストアに出かけた。雪の中、ひとり車を運転しながら、彼は夢を見ているような、不思議な気分にとらわれていた。それほど、目の前にある現実が彼の日々とかけ離れていたからである。

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 その感覚は、ストアに着いてからも変わらなかった。だからだろう、そこにかつての恋人の姿を見つけた時も、彼はそれほど驚かなかった。
 冷凍食品売場のかげに隠れ、彼は彼女が近づいてくるのを待った。そして彼女が通り過ぎようとすると、彼女の袖を引っ張った。
 驚いたような表情。
 何が起こったのか、彼女には最初、わからないようだった。
 だが次の瞬間、その目を大きく見開き、彼を抱きしめようとした。その結果、彼女は持っていた財布の中身をフロアに撒き散らすことになった。
 ふたりは笑った。いつまでも笑った。そして彼女の笑い声はいつしか、涙声に変わっていった。

 ふたりは彼女の買った食料品をレジに運んだ。値段が打ち込まれ、食料品がバッグに詰め込まれていく。だが、支払いを済ませた後でも、ふたりの会話は終わらなかった。
 ちょっと飲んでいこうか、ということになったが、近くに空いているバーはなかった。結局、ふたりは酒屋で6パック入りのビールを買い、彼女の車で飲むことにした。

 純粋な心に。
 そして今この時に。
 ふたりは乾杯をした。

 空白の時間を埋めようと、彼も彼女も思ったが、ふたりともどうすればいいのかは、わからなかった。仕方なく、彼女は「それから」を語り始めた。
 彼女は建築家と結婚していた。
 暖かく、安心して暮らせていると彼女は言った。
 だが、彼のことを愛している、とは彼女は言わなかった。

 元気そうで何よりだ、と彼は言った。
 そして彼女の瞳が昔と同じブルーであることを称えた。
 その時、彼女の瞳の中がかすかに揺れた。彼にはそれが、疑いなのか、感謝を意味するのかわからなかった。

 レコード店でみかけるから、元気にやっているんだろうと思っていた、と彼女は言った。
 ああ、観衆は素晴らしいけど、ツアーは地獄だよ、と彼は言った。

 ビールを飲み終える頃には、ふたりとも話し疲れているようだったし、もうそれほど話すことも残っていなかった。そして彼女は彼に口づけ、彼は車から降りると、彼女が走り去っていくのを眺めていた。

 学生時代に戻ったような、懐かしい心の痛みを抱えながら、彼は自分の車に戻り、家へと向かった。気がつくと、雪は雨に変わっていた。


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