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もしマール・ハガードが生きていたら今のアメリカに何を思うか

2017.04.06

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 その男は、1937年の今日、4月6日に生まれ、2016年の4月6日、ちょうど1年前に永い眠りについた。彼がもう少しだけ目を覚ましていてくれれば、今日は彼の80回目の誕生日だったことになる。

 彼の父、ジェイムス・フランシス・ハガードと、母フロシー・メイはオクラホマで結婚している。1930年代、いわゆる大恐慌時代、スタインベックの「怒りの葡萄」の世界そのままに、1934年、納屋を火事で失ったハガード一家は、カリフォルニアを目指した。彼らはローウェル、リリアンという一男一女とともにベイカーズフィールドに落ち着いた。

 マールが生まれたのはその3年後。ボックスカーを改造したトレイラーハウスの中だった。
 だが、8年後の1945年、父ジェイムスが脳出血で急死すると、一家の環境は一変する。母親は簿記の仕事などをして何とか一家を支えたが、ほとんど家にはいられなかったこともあり、マールの生活は荒れていく。そんな中、唯一の慰めであり、楽しみだったのが兄ローウェルからもらったギターを弾くことだった。だが、マールの素行は悪くなるばかりだった。

 1950年。13歳、つまりティーンエイジャーとなったマールは、それまでの盗みや小切手不正に加え、万引きしたかどで少年院に送られている。そして翌1951年、14歳になったマールは友人だったボブ・ティークーと家出を試みている。貨物列車に隠れ、ヒッチハイクを繰り返し、テキサスまで逃げたのである。だが、結局、ふたりはカリフォルニアに戻ることになる。そこで逮捕。ふたりに、盗みの容疑がかけられたのだ。彼らは少年院に送られるが、後に真犯人が逮捕され、釈放。ふたりは故郷、ベイカーズフィールドを離れ、同じカリフォルニアのモデストに移っている。
 この地でマールは働き始める。運転手、肉体労働、コック、草刈り。そして強い絆で結ばれたティークーとともにモデストのバー「ファン・センター」で初のステージをこなしている。ギャラは5ドル。それにビール飲み放題の特典つきだった。

 だが、マールはそれから何度も逮捕されている。そして1957年、ベイカーズフィールドのロードハウスに強盗に入り、ベイカーズフィールド刑務所に入れられるのだが、脱獄を図り、再逮捕。ベイカーズフィールド刑務所からサン・クウェンティン刑務所に送検される。そこでジョニー・キャッシュのステージと出会ったことは、中野充浩氏のコラムに詳しい。
 1960年にサン・クウェンティン刑務所を出獄してから、マールはシンガーとして真っすぐに歩き出す。それから12年。1972年には、時のカリフォルニア州知事であったロナルド・レーガンは、マールの過去の罪を無条件で特赦する令を出している。

 そんなマールには、ふたつの顔がある。
 汗をかいて働く労働者が喝采するカントリーマンとしての一面。
 そしてもうひとつが、1970年に発表された「ザ・ファイティン・サイド・オブ・ミー」に代表される愛国者としての一面である。



 1970年。アメリカはベトナム戦争に揺れていた。そしてショービジネスの世界では、反戦を叫ぶことがクールなのだという風潮に包まれていた。そんな中、マールは、安易に反戦を叫ぶ声に疑問を投げかけたのである。

 それから35年。2005年のことである。
 アメリカはイラクを爆撃していた。
 そして戦争を繰り返すたび、アメリカはその戦いに意味を失っていた。ベトナムはその大きなきっかけだったが、イラクでは、マールまでもがこの戦いに意味を見出せなかったのである。

♪ イラクから出ていこうぜ ♪


 マールは歌った。

♪ まず建て直すべきは、アメリカだ
 (アメリカ・ファースト)     ♪


 もし今、マールがマイクの前に立ったら、どんな歌を歌うのだろうか。そしてドナルド・トランプはマールの歌にどんな感想を抱くのだろうか。


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