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宇多田ヒカル~母として、人として、のうた

2017.03.13

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宇多田ヒカルのアルバム『Fantôme』がリリースされたことで、日本中がザワついている。
1999年に15歳で「Automatic」でデビューして以来、彼女は日本中をザワつかせてきたが、2010年に突如、「人間活動」のため第一線を退いた。
そしてまた、6年ぶりに戻ってきたというのだからザワつかないわけはない。

僕が物心ついた時から宇多田ヒカルの歌はあちこちで流れていた。ある時はテレビゲームのCM、ある時はドラマの主題歌、またある時は歌番組。彼女の歌はなぜかとても耳に残り、毎回何かしらの形で知らず知らずのうちに耳に触れてきた。
そして僕が中学生になった頃に、宇多田ヒカルは活動休止宣言をした。当時はあまり音楽に興味がなかったが、にもかかわらずどこか心がザワついた。「人間活動ってなんだ?」と思ったことや、テレビのワイドショーで活動休止を前にした、最後のライヴの様子が何度も報じられたことをよく覚えている。
それからの6年間、宇多田ヒカルを熱心に聴き続けていたという訳ではないが、アルバム発売の報を聞いた時はワクワクした。幼い時から触れ続けてきた宇多田ヒカルの新しい音楽を、また聴くことができるというだけで嬉しかったのだ。

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『Fantôme』はサウンドこそEDMやR&B、ヒップホップの最先端を取り入れているが、とても人間くさいアルバムになっている。
歌詞は分かりやすい日本語で構成され、歌われるテーマは人間の喜怒哀楽という普遍的な感情である。そのテーマに重ねられるのは、宇多田ヒカルの個人のことである。
例えば、アルバムの1曲目「道」では心の支えになる人のことをEDMサウンドに乗せて歌っている。これは宇多田ヒカルの原点である母であり歌手の藤圭子に向けられた歌詞になっている。

続くR&Bテイストの「俺の彼女」で歌われるのは、彼氏好みになろうとして本来の自分を見失う女性の姿である。これは世間の「強い女」のアーティストイメージに悩まされていた宇多田ヒカル自身の姿に重なる。
とても普遍的なことをテーマとして掲げながらも、彼女自身のパーソナルなことを歌詞に歌い込んでいるのだ。それがこの『Fantôme』が人間くさいアルバムである所以であろう。
彼女が歌手活動を休み「人間活動」をしてきたからこそ、得られた視点がこのアルバムに現れているのだ。

アルバムリリース後のインタビューで母親の存在の大きさについて、「自分のミュージシャンとして、人間としての原点は母親であるということに気がついた」と語っている。
2013年に藤圭子が亡くなったこと、そして宇多田ヒカル自身も母親になったが改めて母と向きあうきっかけになったのであろう。
テレビに藤圭子の写真が映し出されるとき気がついたのだが、今回の宇多田ヒカルの髪型はどことなく、母の面影を彷彿とさせる。

彼女は藤圭子についてNHKの『SONGSスペシャル』でこうも語っていた。

「普段はきゃっきゃとしている小柄な女性なのに、ステージになって歌い出すと体からエネルギーのオーラみたいなのが出ているんです」
「私の原点は母だから、あらゆる現象に母がいるのは当然なんです。
(中略)
それを感じられるのは素晴らしいことだなと思えるようになったんです」

人間としても歌手としても、宇多田ヒカルの原点であった母の藤圭子。そんな母という存在に向き合った本作だからこそ、より人間くさい作品になったのではないのだろうか。

彼女はきっと近いうち、再びステージに立つであろう。そうすると彼女の子供も幼き日の彼女自身のように、普段とは違うステージに立つ母親を目の当たりにすることであろう。
彼女もまた、藤圭子のように母親としてステージで歌うようになるのだ。
そんな新しい彼女の姿をライヴで観る日が、今から待ち遠しくて仕方がない。

 

*なお母の藤圭子についてはこちらのコラムをお読みください。『藤圭子 ~日本語でブルースを体現するロック世代の女性シンガーが誕生した』

「道」
サントリー天然水『水の山行ってきた 南アルプス』篇 60秒 サントリー CM


アルバムのCM
「二時間だけのバカンス featuring 椎名林檎」(アルバム「Fantôme」TV-SPOT)

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