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【魅惑のソウル・ヴォーカル⑧】ミニー・リパートン~パーフェクトなエンジェル・ヴォイス

2023.07.11

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天使がこの世に降り立ったのは、1947年11月8日だった。

シカゴのサウスサイドで、8人兄弟の末っ子として生まれたミニーは、幼い頃から非凡な音楽の才能を持っていた。両親はその才能に早くから気付き、オペラ歌手の元でミニーに歌を学ばせる。
誰もがミニーの成功を信じて疑わなかったが、彼女の才能はすぐに花開いたというわけではなかった。

持っているすべての音域を使って歌うことをオペラから学んだミニーだが、彼女の心を捉えたのはオペラではなく、当時のモータウン・サウンドを中心としたR&Bだった。

十代の頃にR&Bの名門、チェス・レコードの人間を紹介されたミニーは、受付嬢として働きながら、バック・コーラスとしてレコーディングに参加するなどしてチャンスを伺っていた。
そして、ジェムスというコーラス・グループに加入し、レコード・デビューを果たす。しかし、ジェムスのレコードはあまりヒットしなかった。

ジェムスを脱退した後のミニーを、チェスはソロ・シンガーとして売り出そうとした。その時、ミニー・リパートンの名では冴えないという理由から、アンドレア・デイヴィスという名前で1966年にシングルをリリースした。しかしこれもヒットには恵まれなかった。

次に、ミニーはチェス傘下のカデットに所属していたサイケデリック・ロック・グループ、ロータリー・コネクションにヴォーカリストの一人として参加することとなった。ロータリー・コネクションは、チャールズ・ステップニーがアレンジやプロデュースなどを手がけていた、黒人白人男女混合のグループだ。
ライヴなどでの定評はあったが、レコード会社による全国プロモーションなどがなかったため、6枚のアルバムをリリースしたもののいずれもヒットには至らなかった。

しかし、ミニーはロータリー・コネクションでツアーを回っていた時に、シカゴのクラブで店長をしていた、後に夫となるリチャード・ルドルフと出会う。ちょうどその頃、ソング・ライティングに興味を持ち始めていたリチャードは、ミニーを通してチャールズ・ステップニーと出会い、ソング・ライティングの腕を磨いていく。

そして1969年、ロータリー・コネクションを脱退したミニーは、再びソロ・シンガーとしてアルバム『カム・トゥ・マイ・ガーデン』をレコーディングすることとなった。
プロデューサーはチャールズ・ステップニー。
アルバムの冒頭を飾る「レ・フルール」は、夫のリチャードとチャールズ・ステップニーの共作によるドラマティックで美しい楽曲だ。


しかし素晴らしいアルバムが仕上がったにもかかわらず、このアルバムはレコード会社の都合で1年以上も発売を見送られたのだった。そのことに落胆したミニーはチェスを離れることにした。

その後ミニーは、夫のリチャードとフロリダに素敵な家を見つけ、子供ができ、しばらくの間都会の喧騒から離れて家族で幸せな日々を送っていた。
ゆったりとした時間の中で、二人はたくさんの曲を書いた。

そして1973年、エピック・レコードとの契約話が持ち上がる。
アルバムをレコーディングするにあたって、レコード会社から「プロデューサーは誰にする?」と訊ねられ、ミニーは当然のごとく「スティーヴィー・ワンダーね」と答えた。モータウンを代表するトップ・スターの名には、レコード会社もさすがに驚かされたことだろう。

しかしそれには伏線があった。
ミニーとスティーヴィー・ワンダーが初めて出会ったのは1971年。

とあるイベントでミニーはスティーヴィーに、「あなたの音楽が私や家族をどれだけハッピーにしてくれたか」と、スティーヴィーの音楽がどれだけ素晴らしくて自分がどれほどスティーヴィーの音楽を好きで聴いているかを語ったという。しかし当時のスティーヴィーに、そのように語るファンは山ほどいたから、スティーヴィーは特に気にも留めていなかった。

しかし最後に「ありがとう、君の名前は?」と訊ねられ、「ミニー・リパートンよ」と告げると、スティーヴィーは「君があのミニー・リパートンなのかい!」と、飛び跳ねて喜んだという。
この時すでにスティーヴィーは、彼女のアルバム『カム・トゥ・マイ・ガーデン』を聴いて、すっかりミニーの大ファンになっていたのだった。
それ以後ミニーは、スティーヴィーのレコーディングにバック・コーラスとして参加するようになる。

そして1974年、スティーヴィー・ワンダーのプロデュースにより、アルバム『パーフェクト・エンジェル』が完成した。当時のモータウンとの契約の都合上なのか、スティーヴィー・ワンダーは実名を伏せ、エル・トロ・ネグロ名義でピアノやハーモニカなどの楽器演奏にも参加している。

タイトル・ナンバーの「パーフェクト・エンジェル」は、スティーヴィーがプレゼントした1曲だ。スティーヴィーによるエレクトリック・ピアノの演奏が、ミニーの透明感あるヴォーカルを際立たせていて美しい。



スティーヴィーがプレゼントした2曲を除いては、「ラヴィング・ユー」を含む全ての曲がミニーとリチャードによる共作だ。
「ラヴィング・ユー」は、フロリダでの幸せな日々の中で生まれた1曲で、テープに吹き込んだこの曲を、ゆりかごに寝かせた娘のマヤによく聴かせていたという。

しかしレコーディングをするにあたって、まずはドラムを入れるなどしてみたが、どうもしっくりこなかった。そこで、デモテープにかすかに入っていた小鳥のさえずりを、スティーヴィーが入れてみようと提案したのだった。



この「ラヴィング・ユー」の大ヒットで、ミニーは一躍有名になる。
幼い頃から期待されていた才能が、スティーヴィーの協力を得て大きく花開いたのは、ミニーが27歳の時だった。
そして、乳癌を宣告されたのは、その翌年の人気絶頂の頃だったのだ。

神が天使を31歳という若さで天国へ連れ帰るまでの短い間、その5オクターヴの美しい声は、スティーヴィー・ワンダー以外にもクインシー・ジョーンズ、リオン・ウェア、ジョージ・ベンソン、ホセ・フェリシアーノ、クルセイダーズのジョー・サンプルやラリー・カールトン等々、多くのミュージシャンと共演を果たしている。
豊かな表情を持つミニーの天使の歌声は、いつもどんな時でも、心に爽やかな風を送ってくれるような美しさに満ちているのだ。


Minnie Riperton『Perfect Angel』
Capitol Records


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参考文献、引用元:ミニー・リパートン『パーフェクト・エンジェル』1993年盤ライナーノーツ「FEBRUARY 1993 : MASAHARU YOSHIOKA “AN EARY BIRD NOTE”」、「waxpoetics japan no.14」 サンクチュアリ出版、「スティービー・ワンダー心の愛」ジョン・スウェンソン著 米持孝秋訳 シンコーミュージック






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