日本のロックの原点を築いたジャックスの早川義夫は、こんな言葉を残している。
寂しいから歌うのだ。
悲しいから歌うのだ。
何かが欠けているから歌うのだ。
生きることに真剣に向き合っていたからこそ、その歌詞には常に死の影が漂う。
中学時代に日劇ウエスタンカーニバルを観てロックンロールに目覚めた早川は、高校で仲間たちとバンド活動を始めると、和光大学へ進学後にジャックスを結成した。
1968年3月には日本のジャズを扱うマイナーレーベルのタクト・レコードから、シングル盤の「からっぽの世界」が発売になった。
メンバー四人の個性から生まれるジャズともロックともつかない独自のサウンド、生々しいまでの息づかいや気配をともなって、言葉をはるかに凌駕して伝わってくる詞の世界は圧巻だ。
そこには五線譜に書かれた音楽からは決して生まれてこない、バンドという有機体でしか作り出せない生きた音楽が息づいていた。
僕 おしになっちゃった
なんにも話すこと出来ない
僕 寒くなんかないよ
君は空をとんでるんだもの
僕 死にたくなんかない
ちっともぬれてないもの
静かだな 海の底
静かだな 何もない
「からっぽの世界」で注目を集めたジャックスは、1968年秋にメジャーの東芝EMIからファースト・アルバム「ジャックスの世界」を発売する。
ところが後に名盤との評価を受けるこのアルバムが、当時は全くといっていいほど売れなかった。
一世を風靡していたGS(グループ・サウンズ)ではないし、学生たちに流行のカレッジ・フォークでもなく、ジャズやロックの定義にも収まらない音楽は、メディアから黙殺されたのだ。
しかも追い打ちをかけるように「からっぽの世界」の歌詞、「おし」が差別用語だとして放送禁止になった。
ジャックスはわずか2年余りの活動期間で、バンド解散を余儀なくされることになる、
解散の理由は「売れないから食べていけない」という、なんともシンプルかつ身も蓋もないものだった。
ドアーズやベルベット・アンダーグラウンドにも通じる時代の先駆者だったとの声が高まり、日本の音楽史に残る伝説的なロック・アルバムと再評価されるのは、解散から20数年後のことである。
僕らは何かをし始めようと
生きてるふりをしたくないために
時には死んだふりをしてみせる
時には死んだふりをしてみせるのだ
代表作「ラブ・ジェネレーション」の詞から浮かび上がってくるのは、正直すぎるほどに素直に自分をさらけ出す若者の、鋭さと脆さをあわせ持っている純粋な心根だ。
そこには何時のどんな時代にあってもこれだけは不変だと言い切れるだけの、生きていく上での切実な願いが込められていた。
それはやがてマスコミやファンから「フォークの神様」と持ち上げられることを拒絶し、あらためて歌と向きあおうとしていた岡林信康のカヴァーによる「ラブ・ぜネレーション」へと受け継がれていくことになる。