「本物の音楽」が持つ“繋がり”や“物語”を毎日コラム配信

TAP the POP

TAP the SONG

ジャックスから岡林信康に受け継がれていった「ラブ・ジェネレーション」とロック・スピリッツ

2020.03.01

Pocket
LINEで送る

関西フォークの発信元となったインディーズのURCレコードで、ジャックス解散後に契約ディレクターとして働き始めた早川義夫は、1969年の晩秋にソロ・アルバム「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」を発表した。

「僕はこのレコードをどうしても流行に乗り遅れてしまうような方に捧げようかと思う。多分に時代遅れぎみのこれらの詞曲は、けっしてかっこよくはなくなんともみじめな歌ばかりなのである。」
(早川義夫)


ほぼ全曲がピアノの弾き語りで、時代の流行とはまったく無縁のアルバムであった。
そこでは孤独と向き合っているなかで生まれた別離や死をテーマにした歌が、あたかも吐き出されるかのように唄われていた。

かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう


それが洋楽のロックを中心にあらゆる音楽を論ずる月刊誌『ニューミュージック・マガジン』で、1969年度の日本のロック・ベスト・アルバムで3位に選出された。
2位になったのはエイプリル・フール の『Apryl Fool』で、はっぴいえんどを結成する前の松本隆と細野晴臣が在籍していたニューロックのバンドだった。

そして1位に選ばれて「第1回日本のロック賞」を与えられたのが、岡林信康のファースト・アルバム「私を断罪せよ」である。

1968年に「山谷ブルース」でデビューした直後から、岡林の作品は歌詞の内容や表現方法がラジカルだった。
そのために「がいこつの歌」や「くそくらえ節」など、多くの楽曲が放送禁止となった一方で、若者たちの一部や話題に敏感なマスコミから注目されていた。

だが「フォークの神様」などととり上げられて、反体制の象徴として神格化されたことで、岡林は強いプレッシャーを感じるようになり、1969年の9月にライブ活動をキャンセルして第一線から姿を消した。

岡林はマスコミがそれを失踪騒ぎだと書きたてる中で、60年代の半ばに同じような体験をしたボブ・ディランのアルバムを聴きこんでいた。
やがてディランと同様に、ロックのスタイルで活動することを決めた。

そしてスタジオでリハーサルを行っていた、デビュー前だったはっぴいえんどと出会うことになる。

はっぴいえんどはロックのビートやグルーヴといった概念を、日本語によって構築する方法にトライしていた。
だが1969年の時点では細野晴臣と松本隆、大滝詠一、鈴木茂の四人が結成したばかりのロックバンドだった。




1970年に発売された岡林のセカンド・アルバム『見る前に跳べ』には、早川のソロ・アルバムから「NHKに捧げる歌」のほか、ジャックス時代に発表した「ロールオーバー庫之助」、「堕天使ロック」、そして代表作の「ラブ・ジェネレーション」の4曲が、はっぴいえんどの演奏によってカヴァーされている。

僕らは何かをし始めようと 
生きてるふりをしたくないために
時には死んだふりをしてみせる 
時には死んだふりをしてみせるのだ

(「ラブ・ジェネレーション」作詞・作曲 早川義夫)


「ラブ・ジェネレーション」はシングル盤でも発売になったが、表記は「「ラブ・ゼネレーション」だった。




岡林が沈黙していた期間につくった傑作だとして、アルバムの中でも問題作として知られたのは「私達の望むものは」だった。
この楽曲には「ラブ・ジェネレーション」からの影響が、はっきりと感じ取れる歌詞がある。

私たちの望むものは 生きる喜びではなく
私たちの望むものは 生きる苦しみなのだ
私たちの望むものは あなたと生きることではなく
私たちの望むものは あなたを殺すことなのだ

(「私達の望むものは」作詞・作曲 岡林信康)



ジャックスから岡林信康に受け継がれたロック・スピリッツと、日本語によるロックへの挑戦は、それを演奏したはっぴいえんどにも引き継がれていく。
日本の音楽シーンはそこから、新たな時代を迎えることになるのである。


「私達の望むものは」岡林信康(1970)


ジャックス「ラブ・ジェネレーション」(1968)



(注)本コラムは2014年7月18日に公開されました。

Pocket
LINEで送る

あなたにおすすめ

関連するコラム

[TAP the SONG]の最新コラム

SNSでも配信中

Pagetop ↑

トップページへ