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多くの日本人が忘れていた「忘れないわ」を縁があって歌い継いだシンディ・ローパー

2023.06.21

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「けっしてあなたのことを忘れない」という意味を持つ日本語の歌に、シンディ・ローパーが最初に出会ったのは1982年のことだった。

ブルーエンジェルというバンドでデビューしたまではよかったが、どこからも認めてもらうことが出来ず、ソロ・デビューするまで雌伏の期間を過ごしていたシンディは、ニューヨークの日本人向けピアノバー「MIHO」で働いていた。

その店で働くきっかけとなったのは、グラフ雑誌『ライフ(LIFE)』の1982年3月1日号(表紙・エリザベス・テイラー)に掲載された「ガール・ロッカーズ」の特集で、ゴーゴーズやプリテンダーズと一緒にシンディも取り上げられたからである。

「MIHO」を取り仕切っていた日本人女性は、芸術にかかわる有名人を迎えたり応援したるするのが好きで、「ライフ」が撮影したシンディの写真を気に入ったのだ。

ライフ エリザベス・テーラー

仕事は日本人の客におしぼりや飲み物を出したり、煙草に火をつけるといったホステスの役割だったが、その延長で“シンディ&オシボリエッツ”という名前をつけて、店で雇われていたギタリストとピアニストをバックに歌うことがあった。

その時に十八番にしていたのが、日本語の「Wasurenaiwa(忘れないわ)」だった。

オリジナルは史上最年少で全米No.1のヒットを放った記録を持つアメリカの少女歌手、ペギー・マーチが1969年1月に日本でリリースしたシングル盤だ。


作曲は三木たかし、作詞が山上路夫、純日本製のポップスだが、アメリカのシンガーのために書き下ろされものだ。(注1)
しかしオリジナルは目立つほどのヒットにはならず、競作となった伊藤愛子のシングル盤がそれより売れたような印象もあるが、ヒットチャートを上昇するまでには至らなかった。

ところが、日本ではほとんど忘れられてしまったその歌が、1980年代のニューヨークの片隅で唄われていたのだ。

「MIHO」のギタリストだったピーターから、「これを日本語でやったらパーフェクトだよ」と曲を教えてもらったシンディは、当時のことを自伝で次のように記している。(注2)

ピーターと女性ピアノ奏者の伴奏で歌うのだけど、フレーズごとに彼女が「ダ・ダ・ダ」とピアノでちょっとした装飾をつけてくれる。
ギタリストは私がまるでブレンダ・リーみたいに聞こえると言ってくれた。
私はこうした人たちに魅了され、彼らを大好きになってしまった。
今もこの店の、ほんとに親切な人たちを思い出すとほんとに心が温まる。
私は良いホステスになろう、みんなを笑わせてやろうと一生懸命頑張った。


とはいえシンディがその頃に「MIHO」で歌っていたのは営業用で、シンガーとして成功してから自分のステージで取り上げたことなど、当然ながら一度もなかった。

しかしそれから30年後に来日した時にコンサートで唄われた「忘れないわ」は、強いメッセージソングに生まれ変わっていたのである。

東日本大震災から約1年後、シンディは2012年3月12日に行なわれた日本外国特派員協会の記者会見で、「日本のことを忘れないで」と、世界へ向けて強く訴えかけた。

東日本大震災は大変に悲しい出来事でした。
でもみんな前へ進もうとしています。
「日本のことを忘れないで」と皆さんにいいたいのです。
忘れて欲しくないのです。
愛を送ることを忘れて欲しくないのです。


前年、まさに地震が起こった日に公演のために来日したシンディは、わが事のように日本の人たちのことを心配していた。
自分に出来る事が何かないのかと、いつも心を痛めて行動しようとした。
そして帰国の際には必ず帰ってくると言い残して日本を去ったが、約束を忘れることなく1年後に戻ってきてくれたのである。

若い女性が歌えば単なるラブソングにしか聞こえない歌詞なのに、未曾有の震災に見舞われた「日本のことを忘れないで」という願いが込められたシンディの歌からは、思いもよらぬほどのリアリティが放たれることになった。

その時、忘れられていた歌に、新しい生命がともされたとも言えるだろう。
ア・カペラで一生懸命に歌うシンディの姿に、コンサート会場の客席で涙する日本人が多かった。

♪ ワスレナイワ、アナタヲ
アイスルヒトヨ、ワスレナイワ


シンディの日本語による「アナタ」や「アイスルヒト」は恋人を意味しているが、それ以上にもっと大きな対象に愛を訴える祈りがあった。

しかも「忘れないわ」に続けて、コンサートでは必ず「タイム・アフター・タイム」が唄われた。
それによってシンディからメッセージはいっそう鮮明に伝わったのだ。

もしも進むべき道が見えなくなっても
あなたはきっと 私を見つけるわ
もしあなたが倒れそうになったら
私が受けとめ あなたを待ってるわ
いつでも、何度でも


シンディは日本の報道機関の取材を通じたインタビューでも、最後には「オーケー、がんばって、わすれないわ」とメッセージを言い続けた。

2015年のツアーはシンディにとって不滅の名盤であるデビュー・アルバム、『シーズ・ソー・アンユージュアル』のリリース30周年を記念するライヴとなった。
それでも「忘れないわ」は、セットリストから外れることはなかった。

アカペラで歌われる日本語の「忘れないわ」から、「タイム・アフター・タイム」の流れは不動だった。


<本コラムは2015年1月23日に公開されました。こちらも合わせてお読みください>
シンディ・ローパー~苦境の中で必要なもの
早く前を歩いていたのに遅咲きになり、そこから成功したシンディ・ローパー


(注1)ペギー・マーチは日本語はたいへん自然な発音だったので、たびたび来日して日本語でも数多くの曲を録音している。
槙みちるの「若いってすばらしい」、吉永小百合と橋幸夫の「いつでも夢を」など、何を歌っても上手にこなし、1964年には久保浩の「霧のなかの少女」のカヴァーがヒットした。
 
(注2)シンディ・ローパー&ジャンシー・ダン著 翻訳 沼崎敦子「トゥルー・カラーズ シンディ・ローパー自伝」(白夜書房)110ページからの引用。



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