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戦後の焼け跡に生まれたメッセージ・ソング「星の流れに」を継承した美輪明宏と「ボタ山の星」

2019.11.22

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1947年といえば終戦から2年後が過ぎたものの、GHQの統治下にあって復興にはまだほど遠かった。
そんな時期に東京日日新聞の投書欄に、満州で両親を失って命からがら日本に引き揚げてきた若い女性の、悲痛きわまりない体験が掲載された。

身よりも知り合いもいない東京で一人で生きていくために、かつて従軍看護婦の仕事をしていた女性は街角に立って、春をひさぐ娼婦になり、闇の女になるしかなかったという。
そんな身の上を綴った内容の投書を読んだ作詞家の清水みのるは、激しい憤りを感じながら夜を徹して一編の歌詞を書きあげている。

歌詞を受け取った作曲家の利根一郎は身寄りをなくして地下道で生活する浮浪児たちがいる上野に足を運び、ガード下で進駐軍を相手に売春する女性や、その横で靴磨きをして働いている幼い子どもたちの姿を目に焼き付けた。

「星の流れに」は菊池章子の歌でレコードが10月に発売されたが、最初はまったくといっていいほど売れなかったという。
しかし復興が進んできた1949年頃から注目が集まり、闇の女を描いた小説「肉体の門」が人気を呼んで映画化されて、主題歌に使われたことからヒット曲になった。
それから10年余りが経って「星の流れに」の静かな怒りを継承したかのような、悲痛なメッセージ・ソング「ボタ山の星」が美輪明宏(当時は丸山明宏)によって世にでた。

石炭から石油へと国のエネルギー政策が変わった1960年前後は、石炭産業が斜陽化して閉山された炭鉱町が多かった。
炭鉱住宅はどこも電気料金未払いのために、電気が止められていた。

冬でも暗闇の中で家族全員が一枚のふとんにくるまって、お互いの体温で暖を取って寝ていた。
おかずのないご飯が当たり前で、塩や醤油をかけて食べられるだけでもましだった。

生活保護の手続きが後手になると、学校に行ける生徒は少なくなり、登校しても弁当を持っていなかった。
年端のいかない少女が身売りされて、都会へ出て赤線と呼ばれる売春地帯で働いた。

「ボタ山の星}という歌には厳しい生活を強いられる炭鉱町の幼い子どもの姿が捉えられている。
これは実際に美輪明宏が筑豊で体験した記憶をもとにして、幼い子供の哀しみを描いた鎮魂の歌である。

美輪明宏は1959年に炭鉱地帯を巡業でまわった際に、なけなしのお金を握り締めた炭鉱労働者とその家族が、めったに見られない娯楽を求めて観にきてくれているステージに立った。

しかし自分のシャンソンのレパートリーにも、知っている日本の歌のなかにも、その人たちの心を本当に慰めて励ます歌がないと感じた。
そのときには「もう、申し訳なくて、惨めで、穴があったら入りたいくらい恥ずかしくって」という気持ちになったという。

そうした体験を契機に自分で詩を書いて曲を作るという道に踏み出し、日本で最初のシンガー・ソングライターとなっていった。
美輪明宏が「ボタ山の星」をつくったのは1960年に発行された土門拳の写真集、「筑豊のこどもたち」に過去の記憶が蘇ってインスパイアされたものだという。



1975年2月25日に発売された初のオリジナル・アルバム『白呪』に収録された「ボタ山の星」は、唄というよりは語りに近い表現になった。
最後は兄弟の死が暗示されている。
2011年8月にエレックレコードより再発された『白呪』には、ボーナストラックとして「星の流れに」のライブ・ヴァージョンも収められている。

<参照コラム>静かな怒りで反戦を訴える「星の流れに」と藤圭子のブルージーで儚い歌声

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