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憂歌団の「おそうじオバチャン」を放送禁止にしたのは誰なのだろう?

2015.09.18

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1970年代の前半から中盤にかけて、京都では大学生を中心にブルース・ブームが起きていた。

酒蔵を改造したコーヒーショップの「拾得」やライヴハウス「磔磔」、京大西部講堂などで、ウェストロード・ブルース・バンド(「ウェストロード」は京都の「西大路」を英語読みしたもの)を中心に、憂歌団、上田正樹とサウス・トゥ・サウス、ブルースハウス・ブルースバンドなのライブやコンサートが盛リ上がっていた。

それぞれがアーバン・ブルース、カントリー・ブルース、リズム・アンド・ブルース、シカゴ・ブルースを英語で歌っていた。
そこから日本語によるカヴァーとオリジナルに向かって進んだのが憂歌団である。

自分たちの力ではどうしようもない差別と疎外に置かれた者たち、奴隷解放後のアメリカで黒人たちが始めた音楽がブルースだ。

バンド名が「ブルース・バンド」の日本読みであることからわかるように、大阪出身の憂歌団はブルースに埋め込まれた素朴でプリミティブな訴えを、日本のフツウの生活者にも伝わる方法として、自分たちの言葉でうたうようになっていく。

大阪弁でうたう彼らのオリジナル曲には、独得の親近感とユーモア、そして破壊力がある。

デビュー・シングルになった「おそうじオバチャン」は、バンドが持っている特徴と勢いが全開の快作となった。

おそうじ

ヴォーカルをつとめる木村充揮が歌詞を書いた「おそうじオバチャン」は、落語家の笑福亭仁鶴が歌ったペーソスあふれる「おばちゃんのブルース」が元になって生まれたという。

月亭可朝や桂三枝と共に若手落語家として1960年代後半にラジオやテレビで人気がでた仁鶴は、映画やレコードにも進出した。
1969年に出したシングル盤「どんなんかな」のB面曲だった「おばちゃんのブルース」は、A面より人気が出て地元大阪のラジオではよくかかっていた。


 わたしゃビルの お掃除おばちゃん 
 モップかついで 生きてゆく
 ひとり息子を 自慢のたねに 
 毎日 床を みがくのさ
 おばちゃん おばちゃん 
 がんばってや おばちゃん

 やがて息子は 立派に育ち 
 今じゃ一流サラリーマン
 だけど 嫁さんもろうてからは 
 息子は はなれていったのさ
 おばちゃん おばちゃん 
 がんばってや おばちゃん


女手ひとつで息子を育てて立派な一流サラリーマンにしたのに、やがて息子にはなれられてしまう「おばちゃん」の悲しみがテーマで、それを見ている仁鶴がうたって励ましている。

これを聞いて覚えていた木村充揮が1975年の春に行ってたツアー中に、「こんなんしょうや」と思いついて、「おばちゃんのブルース」から歌いだしの歌詞をいただき、4ビートのブルース・パターンに合わせてオリジナルを作った。

 わたしゃビルの おそうじオバチャン 
 わたしゃビルの おそうじオバチャン
 モップ使って仕事する
 朝・昼・晩と便所をみがく
 朝・昼・晩と便所をみがく
 ウチの便所はもうイヤヨ
 1日働いて、2.000円!
 今日も働いて、2.000円!
 明日も働いて、2.000円!
 クソにまみれて、2.000円!
 わたしゃビルのおそうじオバチャン 



こちらは働くオバチャンの本音の歌だった。
否、オバチャンだけでなく、アセにまみれて、ドロにまみれて、生きていくために必至になって働いている労働者の歌だった。

最初にうたったのはツアーの最終日だった東京・吉祥寺のライブハウス「曼荼羅」、そこに来ていたトリオレコードのディレクター中江昌彦が気に入ってすぐにレコーディングの話が進められた。

こうして1975年10月1日に「おそうじオバチャン」がデビュー・シングルとして世に出ることになった。
一般的にはまったく無名のバンドの曲だったが、「おそうじオバチャン」にはフツウの人たちが持っている生活臭とリアルな感覚があった。

しかも歌の奥のほうからは差別的にみられている人たちの、静かな怒りも聞こえてくるほんものの憂歌(ブルース)だった。

実際に憂歌団のメンバーたちは(大学生だった花岡を除いて)、その頃も、それ以降も、フツウに働きながら音楽をやっていたのである。
木村充挿がこう語っている。(出典1)

レコード出してからも、オレは家で仕事やっとった。
残業しとって、晩メシ食うて、もうひと仕事をしようかな思てたら、かけたラジオからオレらの「オバチャン」が出てきて嬉しかった。
その時、他のヤツら、まだメシ食ってとって、オレひとりやったんやけど、オウ!オウ!いう感じやったな。
ラジオから聞こえるのがオレらの曲が、何か全然違う音の雰囲気で、何十年も前の音を聞いてるみたいな感じやったわ。


「おそうじオバチャン」は放送局などの評判もよく、有線放送でもリクエストが入り、その年の前半に大ヒットしたダウン・タウン・ブギウギ・バンドの「スモーキン’ブギ」に続いて、生活臭のするワークソングのブルースに火がつきそうな気配だった。

ところが発売から1週間で「要注意歌謡曲指定Aランク」になったために、ラジオやテレビから締め出されてしまう。

あれ、放送禁止になってへんかったら、あの時のノリでグッと人気も出たんちゃうかなぁ。
それが放送禁止になってしもて…。
やっぱり、オバチャンのこと、茶化すいうのは今でも悪いことやと思ってる部分あるけど…、それは、そういうのを借りてオレの気持ちを聞いて欲しいだけや。
別になんでもエエやん、乞食でも社長でも…オレら大衆ゆうか、身近な感じで歌てたんやから…そんなこと、なんぼ決めようとライブでは、なんぼでもできるし…、まぁそんなムズカシイことよりオレらのできるこというたら歌うしかないわ。
差別用語とか放送禁止用語とかオレよぉわからんわ。


木村充揮が生まれ育った大阪の生野区は、本人の弁によれば「きたなくて、臭くて、ゴチャゴチャしてて、でもその中で、みんな何か一生懸命、呑んで食べて頑張るって感じしますよね」という街だという。

そこで懸命に生きている人たちの本音が歌われているのに、職業差別だという理由でマスメディアからは放送が禁じられたのだ。
「要注意歌謡曲指定Aランク」とは、1959年に始まった民間放送事業者連盟、略して民放連と呼ばれる事業者団体の取り決めで、命令ではなく自主規制のガイドラインに過ぎない。

放送禁止にしたのは誰なのだろう?
ほんとうに差別しているのは誰なのだろう?

憂歌団の木村充揮は、本名が木村秀勝(きむら ひでかつ)、朴秀勝(ぱく・すすん)でもある。
朴秀勝はインタビューでこんなことも語っていた。(出典2)

憂歌団では木村充揮でやってきたし、物心ついた時から木村秀勝やったし、もう片方で朴秀勝というのがあり、読み方も日本読みがあれば、カタカナでパク・ススンと書かれたり、そういうのって、僕自身もって生まれた、ごくフツウのことなんやね。

言ってみれば生まれた時から在日はインターナショナルなところに生まれてきたみたいな、そんな気持ちなんやね。世界の日本という大阪の街、大阪の生野区みたいなところに生まれて、自分は何をやって、どんな風に楽しく暮らしていけるかなぁ、という感じですね。


「これぞ日本のブルース!」といえるライブ・ヴァージョンの「おそうじオバチャン」はこちらでご覧になれます。


・出典1 木村秀勝インタビュー(憂歌団/著「UKADAN 憂歌団 DELUXE」白夜書房) 

・出典2 朴秀勝インタビュー「大阪にこだわりながら世界へ発信していく。僕らはインターナショナルや!」
http://hana.wwonekorea.com/history/hist/10th94/int-pakSusun.html

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