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「ザ・ラスト・タイム」で初めて明確になったストーンズのサウンドとスタイル、そして新たな方向性

2017.02.17

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初期のローリング・ストーンズにとってターニング・ポイントとなった「ラスト・タイム (The Last Time)」ができた時、キース・リチャーズは初めて「この作品なら、持っていってもほかのメンバーに部屋から追い出されずにすむと思った」という。

ミック・ジャガーと二人でソング・ライティングに取り組み始めて、初めてバンドのメンバーたちに自信を持って提示できる作品になったのだ。

最初はマネージャーのアンドリュー・ルーグ・オールダムから、半ば強制的に命じられて始めたようなオリジナル・ソング作りだった。
しかし二人とも曲を書くのが好きだということに気づいて、デビューから1年半が過ぎて1965年の新年を迎える頃には、ストーンズのために曲を書くのが自分たちの仕事だと考えるようになっていた。

しかし「ザ・ラスト・タイム」が生まれるまでには、8ヵ月から9ヵ月もの時間がかかっているとキースは語っている。

その前にマリアンヌ・フェイスフルのデビュー曲「アズ・ティアーズ・ゴー・バイ」が、1964年8月にUKチャートで最高9位のヒットになっていた。

「アズ・ティアーズ・ゴー・バイ」を持ってローリング・ストーンズのところへ行ったら、「失せろ、二度と戻ってくるな」ってことになったはずだ。
ミックと俺は腕を磨く努力もしていたんだ。こういう(「アズ・ティアーズ・ゴー・バイ」)バラードをしょっちゅう作っていた。
ストーンズでやっていた音楽とは何の関係もないものを。
そして、ついに「ザ・ラスト・タイム」が出来上がり、二人で顔を見合わせて頷いた。


その歌にはストーンズならでのギターのリフがあった。
徹底的に追求していくことになるストーンズ・サウンドの原型が、「ザ・ラスト・タイム」で初めて明確になったのである。
そして歌詞にも、ストーンズらしいひねりがあった。

以前だったら書けなかったかもしれない題材、地方に旅に出て、女と別れる話だ。
”ユー・ドーント・トライ・ヴェリー・ハード・トゥー・プリーズ・ミー(俺の意に添う気がないんだな)”。
遂げられなかった欲望が題材の、ありふれたセレナーデとは違う。
あそこで頭の中にカチッと音がした。


キースとミックはこのときに初めて、ストーンズにおける物事の決定に中心的な役割を果たしていたロードマネージャー、イアン・スチュワートの前で曲を披露できるだけの自信が持てたという。



「ザ・ラスト・タイム」は当時の最新設備を持つロサンゼルスのRCAスタジオで、1965年1月にレコーディングされている。
ツアーから戻ったばかりでメンバー全員がへとへとだったが、それでも自信作だったのでキースもミックも力をふりしぼってスタジオ入りした。

録音終了後、俺とミック以外はみんなへたりこんじまった。その場にフィル・スペクターがいた。聴きにきてほしいとアンドリューが頼んだんだ。ジャック・ニッチェも来てくれていた。清掃員が掃除に来る。巨大なスタジオの片隅が静寂に支配され、残った人間で楽器を手に取った。


こうしてハープシコードを弾くジャック・ニッチェと、ビル・ワイマンのベースを手にしたフィル・スペクターによって、シングルのB面になった「プレイ・ウィズ・ファイア」が吹き込まれた。



1965年3月に発売された「ザ・ラスト・タイム」は3曲目の全英No.1ソングとなり、サウンドとスタイルが明確になったストーンズは「サティスファクション」「アンダー・マイ・サム」といったオリジナル曲を、引き続きRCAスタジオで生み出していくことになる。

キースはその頃のことを、「あれは魔法のような時期だった」と振り返っている。

ソングライティング、録音、パフォーマンス、全てが新しいレベルに踏み込んだ時期だった。そしてこれはブライアンが脱線し始めた時期とも重なっている。



ローリング・ストーンズは1964年6月から66年の8月にかけての2年間、RCAスタジオで断続的にレコーディングを続けていった。
その結晶が新しい方向性を打ち出したアルバム、『アフター・マス(aftermath) 』となった。
カヴァーが主だったそれまでとは違って、アルバムの全曲がミックとキースのオリジナル・ソングだった。

アフターマスローリングストーンズ 


(注)キース・リチャーズの発言は、『キース・リチャーズ自伝「ライフ」』翻訳;棚橋志行(楓書店)からの引用です。


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