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〈吐きすて〉の歌の系譜⑤=19歳の山口百恵が放った本気のフレーズ~「馬鹿にしないでよ そっちのせいよ」

2016.09.24

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山口百恵は1972年にオーディション番組『スター誕生!』で見出されて、翌年5月に歌手としてデビューした。
彼女がアイドル歌手から大きく飛躍したのは1974年10月から放送された大映テレビ制作による連続ドラマ、『赤い迷路』がきっかけとなった。
これが評判になってシリーズ化される一方で、12月には初主演となる映画『伊豆の踊子』が公開されて、スクリーンでも存在感を放つようになっていく。

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所属するホリプロダクションの音楽制作会社、東京音楽出版の原盤制作ディレクターとして井上陽水を手がけていた川瀬泰雄がスタッフに加わると、1974年6月の5枚目のシングル「ひと夏の経験」はチャート3位、12月にリリースされた7枚目のシングル「冬の色」ではとうとうチャート1位を獲得するに至った。

しかし1975年になるとそれまでの路線には、少しづつ閉塞感のようなものが立ち込めてきた。
新しい方向性を打ち出そうと、ニューミュージックやロック系のアーティストに楽曲を依頼することが検討された。
候補には井上陽水や矢沢永吉、中島みゆきらの名前が挙がった。
その中にダウン・タウン・ブギ・ウギ・バンドを率いて「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」のヒットを放っていた宇崎竜童と、夫人で作詞家の阿木耀子の名前もあった。

そこから「横須賀ストーリー」という代表曲が生まれて、山口百恵は本当の自分の歌と出会うことになる。

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川瀬は著書で「阿木さん宇崎氏との出会いが、歌手としての百恵をいっそう成長させた」と記している。

百恵自身が、デビューから徐々に成長していくにしたがって、男性の作詞家が描く少女心理の世界に、百恵は没入することが、だんだん困難になってきたのだろう。そこへ阿木さんの登場である。
(川瀬泰雄著『プレイバック 制作ディレクター回想記 音楽「山口百恵」全軌跡』Gakken)

とくに阿木耀子の書く無垢な少女のイメージは、見事に本人そのものと重なるものだった。
そのことを百恵本人が、後に三浦百恵としてこう述べている。

 阿木さんの詩を宇崎さんのメロディにのせて歌う時だけが、本気になれた。
 歌うというよりも、もっと私自身に近いところで歌が呼吸していた。
 思えば阿木さんの詩を歌い始めた頃から、実生活での私の恋も始まったのだけれども、阿木さんの詩の中に書かれた言葉が、私に恋という感情のさまざまな波模様を教えてくれたようにも思う。
 恋をする中で感じた思いを、詩の中に言葉として見つけだしていた。
 詩の中から、言葉で飛び込んできた感情が、今度は現実の恋の間(はざま)に見えかくれしていた。
 阿木さんの詩は、そうして私の心の奥深くまで染み込んで行った。

(阿木耀子著『プレイバックPartⅢ』新潮文庫 所収 三浦百恵による「解説」より)


宇崎=阿木コンビ作品との相性はきわめて良く、「パールカラーにゆれて」「夢先案内人」「イミテーション・ゴールド」とヒット曲が続いた。

1978年に「プレイバックPartⅡ」を作詞した阿木耀子は、歌のなかに2箇所、科白(せりふ)めいたフレーズが出てくるので、そこを歌い分けてほしいと思っていたという。

しかし完ぺきを求めるあまりに作品作りに時間がかかって、楽曲が完成してデモ・テープが出来上がったはその日の明け方だった。
それを萩田光雄が昼までにアレンジしてオケを録音し、山口百恵の歌を吹き込んでミックスを終わらせて、マスターテープを夜中までに工場へ納品しないと発売日に間に合わない。

そんな切迫した状況のなかで、多忙だった山口百恵はテレビの収録から駆けつけて、聴いたばかりのデモ・テープを頼りにレコーディングが始まった。
阿木耀子と打ち合わせる時間もないままだった。

「プレイバックPartⅡ」
作詞:阿木燿子 作曲:宇崎竜童 編曲:萩田光雄

緑の中を走り抜けてく真紅なポルシェ
一人旅なの
私気ままにハンドル切るの
交差点では隣りの車が
ミラーこすったと
怒鳴っているから
私(あたし)もついつい大声になる

馬鹿にしないでよ そっちのせいよ
ちょっと待って
Play Back Play Back
今の言葉
Play Back Play Back

馬鹿にしないでよ そっちのせいよ
これは昨夜(ゆうべ)の私のセリフ
気分次第で抱くだけ抱いて
女はいつも待ってるなんて
坊や、いったい何を教わって来たの
私だって、私だって、疲れるわ


実際にスタジオで立ち会っていた阿木耀子は、最初に歌ったテイクをプレイバックして聴いた印象を、著書『プレイバックPartⅢ』のなかでこう述べている。

 私は百恵さんのプレイバックの声を、スタジオのミキサールームのあのスピーカーで聴けたことを、とても幸福に思う。

 最初を十八歳で、次を三十歳で歌い分けて欲しい言うより前に、モニター用のスピーカーから流れてくる声はまさしくそうなっていた。
「バカにしないでよ」
「馬鹿にしないでよー」
 十八歳の百恵さんの中に、確かにしたたかな大人の女が透けて見えた時、本当に凄(すご)いなと思った。


ほかには誰も歌いいこなすことができないような歌詞、そしていろいろな含みのあるフレーズを、山口百恵はあの低い声で、吐きすてるかのように歌った。

歌詞とメロディーとアレンジ、そして歌声や台詞が全部、ひとつになってドラマティックな表現になっている。
これを10代で自然にやれたことが、歌手で女優だった山口百恵の持つ比類のない凄みだった。

この「プレイバックPart2」で山口百恵は史上最年少、19歳にして1978年の『NHK紅白歌合戦』で紅組のトリを務めたのである。



山口百恵



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