TAP the SONG

蘇った歌の系譜①「コーヒールンバ」が大ヒットした後で発見された西田佐知子「アカシアの雨がやむとき」

2016.11.25

Pocket
LINEで送る

西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」は1960年4月、ポリドール・レコードからシングルが発売された。
その片面には原田信夫が歌った「夜霧のテレビ塔」という曲が入っていた。
当初のレコード・ジャケットでは本名の「西田佐智子」と表記されていたし、原田信夫の顔写真も掲載されていた。

当時は45回転のドーナツ盤が出て間もない時期であり、A面とB面に異なる歌手の楽曲が収録されるのはよくあることだった。

%e3%82%a2%e3%82%ab%e3%82%b7%e3%82%a2%e3%81%ae%e9%9b%a8%e3%81%8c%e3%82%84%e3%82%80%e3%81%a8%e3%81%8d

それは西田佐知子にとって4枚目のシングル盤だったが、発売した後もそれほどヒットしたというわけでもなかった。
その年の10月、西田佐知子の運命を変える女性ディレクターがポリドールに入社する。

西田佐知子の制作担当だった五十嵐泰弘とともに、現場で制作に携わることになる27歳の藤原慶子である。
彼女は後に「おけいさん」の愛称で知られることになる。

当時2年前から吹き荒れたロカビリーブームの影響で、若者たちの間でカヴァー曲による和製ポップスがブームになりつつあった。
その年の10月に正式に発足する東芝レコードは、春から森山加代子が「月影のナポリ」と「メロンの気持ち」を連続ヒットさせていた。
ダニー飯田とパラダイスキングの「悲しき60才」も大ヒット、ヴォーカルの坂本九が一気に人気者になった。

おけいさんはジャズ出身でリズム感のいい西田佐知子に、外国のカヴァー曲を探してきて歌わせようと企画した。
その時に相談に乗ってくれたのが、洋楽部の先輩ディレクターだった松村憲男だ。

おけいさんが入社して3作目に手がける「コーヒールンバ」に、最初に着目していたのは松村だった。

 あれはスペインの曲で、日本語にすると「コーヒーをひ挽きながら」というタイトルの曲だった。インストルメンタルだけの曲で、それを「ポリドールアワー」っていうラジオ番組でかけたら、その晩にもう反応があって、これはいけると思ったんだ。それで邦楽課でカバーを作ればいいと推薦して、五十嵐さんが西田で歌わせたんだね。「コーヒールンバ」ってタイトルは僕がつけたもの。
 西田はレコーディングとの当日になっても、曲を覚えてないって言うんで、僕がピアノでレッスンしたんだよね。リズム感が良い子で、すぐに歌えた。


1961年9月に発売された「コーヒールンバ」は爆発的なヒットとなり、西田佐知子は年末のNHK紅白歌合戦に出場することが決まった。




西田佐知子とポリドールに幸運だったのは、その頃に東京と大阪でそれぞれに独立した個人が立ち上げた有線放送が軌道に乗り、パチンコ屋や飲食店などから繁華街へとネオン街に進出していたことだ。

有線放送のおかげで1年以上前に出した「アカシアの雨がやむとき」にもふたたび注目が集まり、西田佐知子をメインにしたレコードも再発売された。
まったくタイプの違う楽曲が同時にヒットしたことで、西田佐知子は1962年になってスターの座を確かなものにしていった。

%e3%82%a2%e3%82%ab%e3%82%b7%e3%82%a2%e3%81%ae%e9%9b%a8%e3%81%8c%e3%82%84%e3%82%80%e3%81%a8%e3%81%8d%ef%bc%92

1962年の年末に放送された『第4回輝く!日本レコード大賞』でも、ロング・セールスが評価されて「アカシアの雨がやむとき」に特別賞が授与された。

さらには浅丘ルリ子と高橋英樹が主演して、西田佐知子も本人の役で出演した日活映画『アカシアの雨がやむとき』が1963年に封切られた。
やがて「アカシアの雨がやむとき」は60年安保闘争の学生デモと機動隊の激突で命を落とした東大生、樺美智子さんの鎮魂歌として伝説化していく。

アカシヤの雨にうたれて
このまま死んでしまいたい
夜が明ける 日がのぼる
朝の光のその中で
冷たくなったわたしを見つけてあの人は
涙を流してくれるでしょうか


%e3%82%a2%e3%82%ab%e3%82%b7%e3%82%a2%e3%81%ae%e9%9b%a8%e3%81%8c%e3%82%84%e3%82%80%e3%81%a8%e3%81%8d%e5%ae%89%e4%bf%9d%e9%97%98%e4%ba%89

テレビ番組で当時の世相を反映する出来事として安保闘争、とりわけ樺美智子死亡への抗議デモが映像で流れるとき、「アカシアの雨がやむとき」が流れることが定着した。

60年安保の「鎮魂歌」という意味合いで語られるのはその後のことで、昭和を代表するスタンダード・ソングになったのだ。


(注)有線放送は1961年(昭和36年)6月1日、宇野元忠が大阪府大阪市において個人事業として創業し、数年間でネットワーク化するまでになった。東京の新宿では1962年 (昭和37年) 4月に工藤宏が創業して3年後に組織を法人化、商号を株式会社日本音楽放送とした。



西田佐知子「アカシヤの雨がやむとき」

Pocket
LINEで送る

スポンサーリンク

関連アーティスト

関連するコラム

[TAP the SONG]の最新コラム

このコラムへの感想・コメントを書く

Pagetop ↑