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阿久悠の”ない・ソング”3部作「朝まで待てない」「ざんげの値打ちもない」「どうにもとまらない」

2017.04.14

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1967年11月10日にシングル盤「朝まで待てない」でレコード・デビューしたザ・モップスは、日本で最初にサイケデリック・サウンドを打ち出したバンドだった。

その年の2月にデビューしたザ・タイガースが大きくブレイクして始まった空前のグループサウンズ(GS)のブームで、バンドのメンバーが揃いのユニフォームを着るのが定番になっていた時代に、モップスは思い思いのヒッピー風ファッションを身につけて登場した。

5人がそれぞれインディアン・スタイル、メキシカン・スタイル、当時大流行していた映画からマカロニ・ウェスタンなどのスタイルだった。



そして、GSのバンドの多くが若い女性ファンをターゲットにして、アイドル的なルックスを売りにする傾向が強かったこの時期に、高度な演奏力を支えにしてR&Bやブルース・ロックを志向した。

メンバーは鈴木ヒロミツ(vo)/星勝(g、vo)/三幸太郎(g)/村上薫(b)/スズキ幹治(dr)の5人。
バンド名のモップスは、モップ・トップと呼ばれていたビートルズのヘア・スタイルから名付けられたという。

ホリプロダクションと契約したモップスはGSブームに出遅れた老舗のレコード会社、ビクターからデビューすることになった。
そこで起用されたソングライターが作詞家としてはまだ無名の新人と言ってもいい阿久悠と、慶応大学に在学しながらレコード店を経営していた村井邦彦である。

「多分、他の誰かに断られたんで、僕にお鉢が回ってきたんじゃないかな」と、後に阿久悠は語っているが、ビクター・レコードから斎藤豊と武田京子という2人のディレクターが突然やってきた。
「明日の朝までに詞がほしい」と言われた阿久悠は、そのまま赤坂の小さなホテルに連れて行かれて部屋にカン詰になった。

拉致されてしまったような状態で、ほんとうに翌日の朝までに楽曲を仕上げることを要求された。
そこでやけくそのような気分でつけたのが、「朝まで待てない」というタイトルだった。

一緒にカン詰になって作曲した村井邦彦はまだ22歳だったが、翌々年には音楽出版社アルファ・ミュージックを設立し、その後にプロデューサーとして荒井由実やYMO世に送り出して成功を収め、日本の音楽シーンに新しい時代をもたらすミュージックマンとなっていく。
ちなみに荒井由実はモップスのファンで、追っかけだったという。

そんな才能の持ち主同士が偶然に出会ったことで、偉大なる作詞家の誕生へと結びついていった。
だが、そのときはお互いにどこの誰かもよくわからないまま、相手の能力や人柄を探り合って一曲を完成させた。

「朝まで待てない」 作詞:阿久悠 作曲:村井邦彦

 あきらめ 捨てた筈なのに
 恋は眠りを 忘れさせる
 闇に向って お前の名を呼ぶ
 今すぐ逢いたい 朝まで待てない
 あきらめ 捨てた筈なのに
 胸がつぶれて ひとりの辛さ
 かみしめながら お前の名を呼ぶ
 今すぐ逢いたい 朝まで待てない


ビクター・レコードはこのとき、3グループを一気にデビューさせてGSブームに参入している。

グループサウンズを一過性のブームだと見なしていたビクターは・レコードは、スパイダース、ブルーコメッツ、ワイルドワンズ、サベージ、タイガース、カーナビーツ、ジャガーズ、、ゴールデンカップス、ビレッジシンガーズと、次から次に人気グループが誕生するのを見て、老舗だったがゆえに重かった腰をやっと上げたのだった。

その遅れを取り返すための作戦が、いっきょに3グループデビューさせるというものとなった。



R&Bを歌って米軍キャンプなどを回っていたダイナマイツの「トンネル天国」は、超のつく売れっ子だった橋本淳が作詞し、黛ジュンのヒット曲で注目を集めていた鈴木邦彦が作曲した。

ザ・サニー・ファイブの「太陽のジュディー」も、ザ・ピーナッツのヒット曲などで有名な岩谷時子が作詞し、「見上げてごらん夜の星を」や「希望」で脚光を浴びた、いずみたくが作曲していた。

阿久悠はこのとき、それまでの流行歌や歌謡曲とは違って、聴き手の胸に強く訴える作詞にしようと心がけたという。
そして結果はほどほどのヒットになって、ビクターからヒット賞をもらうことができた。
後にこう語っている。

僕は、「朝まで待てない」という詞でスタートしたことが、その後の作詞家生活の中で一番幸福だったと思っている。なぜなら、抵抗があり、拒絶があり、混迷があり、飢餓があり、このタイトルは、今の時代でも詞にできると感じられるからである。


しかし、あとが続かなかった。
スパイダースの大野克夫と組んで作ったセカンド・シングルの「ベラよ急げ」も、ふたたび村井邦彦とのコンビで作った「熱くなれない」も、売れるというとこまではいかなかった。



阿久悠はその頃、あるレコード・ディレクターから、「君の詞は売れないよ、哀しくないもの」といわれた。
それを聞いて「なるほどな」と思ったが、それでかまわないと考えることにした。

売れるためにという理由で、それまでの流行歌や歌謡曲と同じように、恨みや自虐的な気分をちりばめて、情に訴えるような詞を書く気はなかったからだ。

作詞家として成功しなくても、放送作家として十分に生活は成り立っていた。
だから作詞の仕事については誰か物好きな人が、発見して褒めてくれればそれでいいと自分を納得させていた。

そんな阿久悠の歌に時代が追いついてくるのは3年後、1970年の10月に出た北原ミレイの「ざんげの値打ちもない」がヒットしてからのことだ。

そして1972年6月、山本リンダの「どうにもとまらない」が大ヒットして、「朝まで待てない」から「ざんげの値打ちもない」と続いた、”ない・ソング”の3部作によって、いよいよ”阿久悠の時代”がやってくる。

〈参照コラム・「阿久悠は新時代の旗手になる!」と、ひとりの新聞記者の心を昂らせた歌
〈参照コラム・阿久悠の27歳~僕が作詞家になれたのはビートルズのおかげです〉





(参考図書)三田完 著『不機嫌な作詞家』


『不機嫌な作詞家』

『不機嫌な作詞家』



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