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”阿久悠は新時代の旗手になる!”と小西良太郎に言わせた歌「ざんげの値打ちもない」

2017.08.01

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1967年の2月にザ・タイガースがデビューしたときから、日本では空前のグループ・サウンズ(GS)のブームが爆発した。
前年の夏にビートルズの来日公演が行われる前後から、先行していたスパイダースの活動やブルー・コメッツのヒット曲「青い瞳」で、もう十分に下地はできていた。

そこに火がついたのは9月になって発売されたスパイダースの「夕陽が泣いている」と、11月に出たワイルドワンズのデビュー曲「想い出の渚」がともに大ヒットしたあたりからだ。

当時の最新のスタイルだったエレキバンドによるロック・サウンドに、ルックスがいい男の子が歌う魅力が加わったことで、アイドル的な人気を集めるようになってブームが加熱していった。

それから1年後の1967年11月10日、日本で最初にサイケデリック・サウンドを打ち出したバンドのザ・モップスが、「朝まで待てない」でレコード・デビューした。

メンバーが揃いのユニフォームを着るのが定番になっていた時代に、彼らは思い思いのヒッピー風ファッションを身につけていた。


GSのバンドの多くが、若い少女たちや女性ファンをターゲットにして、アイドル的な要素を売りにする傾向が強かったその時期に、高度な演奏力を支えにしてR&Bやブルース・ロックを志向した。

バンド名のモップスは、モップ・トップと呼ばれていたビートルズのヘア・スタイルから名付けられたという。

ホリプロダクションと契約したモップスは、GSブームに出遅れていた老舗のレコード会社だったビクターからデビューすることになった。
そこで起用されたソングライターがまだ無名の新人だった阿久悠と、その年に慶應大学を卒業したばかりの村井邦彦である。

後に阿久悠は「多分、他の誰かに断られたんで、僕にお鉢が回ってきたんじゃないかな」と語っているが、ビクター・レコードからやってきた2人のディレクターからデビュー曲を書くように依頼されて、そのまま赤坂の小さなホテルに行った。

そこには村井邦彦もいて、「明日の朝までに曲がほしい」と言われる。
そのまま拉致されてしまったような状態で、翌日の朝までに楽曲を仕上げることを要求されたのだ。

お互いにどこの誰かもよくわからないまま、相手の能力や人柄を探り合って一曲を完成させなければならない。
一緒にカン詰になって作曲した村井邦彦はさっさと書いて、阿久悠に譜面を渡して先に帰ってしまった。

阿久悠はホリプロから事前に企画の相談を受けていて、サイケデリックでモップスを売り出したいということは承知していた。
だからいくつかのイメージは用意していたが、急に「明日までと」と言われて緊張したという

さあ時間がない、何とか明日までと急き立てられた。そこで「朝まで待てない」というタイトルを思いついたのは、少し出来過ぎの感じがするが事実である。
(阿久悠『生きっぱなしの記』日本経済新聞社)


阿久悠はこのとき、それまでの流行歌や歌謡曲とは違うものを作ろうと決めていた。
具体的には聴き手の胸に強く訴える歌詞、”タタク歌”にしようと心がけたという。

「朝まで待てない」 作詞:阿久悠 作曲:村井邦彦

 あきらめ 捨てた筈なのに
 恋は眠りを 忘れさせる
 闇に向って お前の名を呼ぶ
 今すぐ逢いたい 朝まで待てない
 あきらめ 捨てた筈なのに
 胸がつぶれて ひとりの辛さ
 かみしめながら お前の名を呼ぶ
 今すぐ逢いたい 朝まで待てない



まずまずのヒットとなった「朝まで待てない」は、ビクターからヒット賞をもらうことができた。
しかし、あとが続かなかった。



セカンド・シングルの「ベラよ急げ」も、サード・シングルの「熱くなれない」もヒットしなかった。

その頃、阿久悠は有名なベテランのレコード・ディレクターから、「君の詞は売れないよ、哀しくないもの」といわれたという。
それを聞いて「なるほどな」とは思ったが、それでかまわないと考えることにした。

売れるためにという理由で、それまでのような恨みや自虐的な気分をちりばめた歌詞を書く気はなかったからだ。

作詞家として成功しなくても、放送作家としては十分に忙しかったし生活も成り立っている。
だから作詞の仕事については、誰か物好きな人が発見してほめてくれればいいと、そう自分を納得させていた。

僕は、「朝まで待てない」という詞でスタートしたことが、その後の作詞家生活の中で一番幸福だったと思っている。なぜなら、抵抗があり、拒絶があり、混迷があり、飢餓があり、このタイトルは、今の時代でも詞にできると感じられるからである。


グループ・サウンズのブームが巻き起こったことから、思いがけない時代の要求で作詞家になった阿久悠に時代が追いついてくるのは、「朝まで待てない」から3年後のことだ。

1970年1月にに森山加代子がカムバックを賭けた「白い蝶のサンバ」が大ヒットし、3月には和田アキ子の「笑って許して」のヒットが続いた。
そして10月に出た北原ミレイの「ざんげの値打ちもない」がヒットし、それまでにない才能だと一気に認められとところに、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」が爆発的ヒットになった。

さらには1972年6月に山本リンダの「どうにもとまらない」が大ヒットしたことで、「朝まで待てない」から「ざんげの値打ちもない」と続いた、”ない・ソング”の3部作によって”阿久悠の時代”がやってきたのである。

〈参照コラム・”阿久悠は新時代の旗手になる!”と小西良太郎に言わせた歌「ざんげの値打ちもない」
〈参照コラム・阿久悠の27歳~僕が作詞家になれたのはビートルズのおかげです〉





(参考図書)三田完 著『不機嫌な作詞家』


『不機嫌な作詞家』

『不機嫌な作詞家』



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