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『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』で最初にレコーディングされたポール・マッカトニーの曲

2017.05.05

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1967年に発表されたビートルズのアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』に収録されている「ホェン・アイム・シックスティー・フォー」は、1966年の11月から始まったサージェント・ペパーズのレコーディング・セッションでは2曲目にレコーディングされた。

恋人に向かって「64歳になっても僕を必要としてくれるかい?」と問いかける、素朴なボードヴィル調のラブソングを作ったのはポール・マッカートニーである。

1902年生まれだったポールの父ジェイムズ(通称ジム)はセールスマンの仕事のかたわら、セミプロのジャズ・ミュージシャンだった。
ジャズと言ってもモダン・ジャズ以前、古きよき時代のオールド・スタイルだから、深刻なものではない。人をうっとりさせたり楽しませたり、心を温めてくれるような音楽だ。
父から自然に教わったボードヴィルやジャズのエッセンスは、ポールの音楽的なルーツとしてオリジナル曲に受け継がれている。

その父が1966年に、64歳の誕生日を迎えていた。
そしてビートルズは大きな転換期を迎えていた。

その年の6月から7月にかけて行われた日本公演の際に、彼らはコンサートの本番で日本武道館に行く以外、一切の行動の自由を奪われ、警察の厳重な警備のもとでホテルに閉じ込められた。

初日の公演が終わった後、ジョージ・ハリソンは演奏を振り返って
「今日の『恋をするなら』は、ぼくがこれまでやってきたなかで最低だったよ」
と反省の言葉を口にした。それに対してリンゴ・スターが
「いい夜もあれば、悪い夜もあるさ」
となぐさめても、
「もうさ、事実をしっかり見ようよ。最近のツアーでぼくたちの演奏はこんなものなんだよ。こういう意味のないステージでいたずらに自分たちを消耗させてるだけなんだ。レコーディング・スタジオならもっとましなことをいろいろできるのに」
と言った。

その2日後の昼、ホテルの部屋でめずらしくリンゴまでが、
「もう金は十分手に入れた。その金を使う場所に連れて行ってくれ!」
と大きな声をあげた。

すると取材に訪れていた「ミュージックライフ」の編集長、星加ルミ子の訪問を歓迎してジョン・レノンがスコッチの水割りを作ってグラスを配り、「僕にはまだ朝だから」と自分はオレンジジュースを手にして、そのグラスを高々と掲げた。

「まもなくビートルズは解散しまーす。過去の栄光に乾杯!」
微妙な空気が流れたが、次の瞬間、みな冗談だと思ってどっと笑い声をあげた。一人引きつった顔のブライアンが星加に言った。
「今の話は書かないでくださいね」

(淡路和子『ビートルズにいちばん近い記者~星加ルミ子のミュージック・ライフ』河出書房新社)

ビートルズは8月29日に行われたサンフランシスコ公演を最後に、ライブ活動をやらないと宣言した。
もう人気者のアイドルのように扱われることに、心の底から嫌気が差していたのだ。
ポールがそれについて、バリー マイルズによる伝記「ポール・マッカートニー / メニー・イヤーズ・フロム・ナウ」のなかで、こう語っている。

 僕らはビートルズであることにうんざりしていた。少年じゃなくて、もう立派な男だよってね。ガキの時代は終わったんだ。その上、マリファナも始めていたから、パフォーマーというよりもアーティストの自覚が生まれていた。以前とは変わっていたんだ。ジョンと僕以外にジョージも曲を書くようになったし、映画も作ったし、ジョンは本を出したし、僕らがアーティストになるのも当然だったわけだよ。


年に2枚のノルマとなっていたアルバム制作ではなく、アーティストとしての自主的なスタジオワークが11月24日から始まった。
ビートルズは架空のバンドがショーをするというコンセプトで、それまでのようにマネージャーのブライアン・エプスタインとレコード会社が決めた発売日までに仕上げるのではなく、締め切りを設けないアルバムの制作を開始したのだ。

 飛行機の中で突然、アイデアが閃いた。僕らが僕らでなくなればいいって。そうすればもっと自由になれる。別のバンドを作って、別のペルソナを作れば面白い。ビートルズの分身を作れば、僕ら自身がもっと違うアプローチを簡単に取れるんじゃないかと考えた。この哲学でアルバムを作れる。別のバンドだったら、僕らも自分たちのアイデンティティを放棄できるってね。


アルバムのレコーディングはジョンが作ってきた新曲「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」を皮切りに始まった。
〈参照コラム・ジョン・レノンの直感がもたらしたレコーディング技術によって完成した「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」〉

「ホェン・アイム・シックスティー・フォー」は1966年12月6日、アビイ・ロード第2スタジオでリハーサルの後に2テイクを録音し、第2テイクがOKテイクに選ばれた。
ベースの他にピアノもプレイしたポールは、翌日にヴォーカルを入れた。

しばらく時間が開いた12月20日にジョンとジョージの3人でコーラスを入れて、さらに翌21日には3人のクラリネット奏者がダビングしてすべてのトラックが完成した。

ところが12月30日にミックスする段階でポールは突然、テープのスピードを上げるというアイデアを出してきた。
若い頃に作った曲だったことを意識して、声を若くするという意図があったという。

そのためにテンポは大幅に早くなり、キーは半音も上がった。
テープの回転をあげてキーを半音も上げたら、普通は滑稽な声になって聞くに耐えないものになるのだが、ポールの声は彼がイメージしたとおりに若返って、不思議な時空を感じさせてくれる。

これもまた若々しいライブバンドではなく、レコーディング技術を駆使して新しい音楽で未知の世界に挑む、アーティストとしてのビートルズらしい作品となった。



(注)ポール・マッカトニーの発言は、バリー・マイルズ著 松村 雄策 (監修) 竹林 正子 (翻訳)「ポール・マッカートニー―メニー・イヤーズ・フロム・ナウ」(ロッキング・オン)からの引用です。


ポール・マッカートニー『メニー・イヤーズ・フロム・ナウ』(単行本)
ロッキングオン


『ビートルズにいちばん近い記者 星加ルミ子のミュージック・ライフ』( 単行本)
河出書房新社

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