TAP the SONG

石原裕次郎に導かれるように誕生した作詞家・なかにし礼の出世作「知りたくないの」

2017.05.05

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立教大学の学生だった中西禮三(後の作詞家・作家 なかにし礼)はシャンソン喫茶でアルバイトするようになり、美輪明宏(=丸山明宏)がホームグラウンドにしていたことで知られるシャンソン喫茶「銀巴里」へも1950年代の後半から熱心に通っていた。

いつしかシャンソン歌手のために訳詞を手がけるようになって、次々に仕事が入ってきたがあくまで生活のためのアルバイトであった。

1963年に学生のまま結婚したなかにし礼が2年後に歌謡曲の作詞家になるのは、新婚旅行で伊豆に行ったときに下田国際東急ホテルで、偶然に居合わせた石原裕次郎から声をかけられたのがきっかけだった。

石原裕次郎は自身が興した石原プロモーションが製作する映画、第一作となった『太平洋ひとりぼっち』のロケで滞在していた。



ホテルの入り口に「石原裕次郎ご一行様」と書いてあったので、ホテル内には大スターがいるという緊張がみなぎっていた。

なかにし礼と新妻が夕食を終えてザワザワしているロビーに出て来ると、奥にあるバーのカウンターに座っていた石原裕次郎と目があった。
すると指で招かれているように思えたので、「僕ですか」と自分の胸を指さすと、石原裕次郎が頷いた。

大スターに呼ばれた二人に向かって石原裕次郎は、「お二人さんが1等賞、いっぱい飲もう」と気さくに声をかけてきた。
撮影が終わって事務所の専務・中井景と飲んでいた石原裕次郎は、退屈しのぎに客の大半を占めていた新婚カップルの品定めをやっていたというのだ。
そして会話をしているうちに、シャンソンの訳詞で生活している大学生だと知って、こう言った。

「日本人なら日本の歌謡曲を書けよ。作詞家になってガーンとヒットする歌をさ」


そして、いい歌が書けたら自分のところに持って来いとも付け加えた。

それから1年以上が過ぎて、なかにし礼は手応えのある歌謡曲の歌詞が出来たので、自分で曲をつけてテープに吹き込んだ。
石原プロに持っていくと中井がテープを聴いて、「いちおうお預かりしておきましょう」と受け取った。

1965年の春に大学を卒業するなかにし礼は、そろそろどこかに就職しないとやっていけないと思い始めた。
そんな時にレコード会社から電話をもらった。

面識のなかったポリドールの女性ディレクター、藤原慶子から頼まれた仕事は菅原洋一に歌わせるシャンソン「恋心」と、B面に入れる「I really don’t want to know」の訳詞だった。

「たそがれのワルツ」というタイトルで菅原洋一がうたっていた「I really don’t want to know」は、エディ・アーノルドやエルヴィス・プレスリーもカヴァーしているカントリーのスタンダード・ソングだ。
その訳詞を書いていて、なかにし礼は自分のなかではじめて「ひらめき」を感じたという。

  「知りたくないの」
  作詞:H.Barnes 作曲:D.Robertson 日本語詞:なかにし礼

  あなたの過去など 知りたくないの
  済んでしまったことは 仕方ないじゃないの
  あの人のことは 忘れてほしい
  たとえこの私が 聞いても いわないで


最初の2行の言葉が生まれた瞬間、それまで体験したことのなかった「ひらめき」が自分に降りてきた感覚になったのだ。

千曲の訳詞をやっていて一度も感じたことのない歴然たるひらめき――それは私にとって一千分の一の歓喜としか表現できない戦慄すべき出来事でした。


しかし「恋心」のB 面だったこともあって、レコードが発売になっても注目されることはなかった。
ただ、菅原洋一がレギュラーで出演していたホテル高輪のラウンジでは、レパートリーとしてうたっていくうちに客席からリクエストが増えてきた。

夜の巷で静かに「知りたくないの」が動き始めたころ、渋谷のバーで藤原から「なにかいい歌ないの?」と聞かれたので、なかにし礼は石原プロに預けたままのテープのことを話した。
その場で壁にかかっていたギターを借りてうたってみせると、藤原が気に入ってくれた。
そして男性コーラス・グループのロス・インディオスと、石原プロから預かっていた裕圭子との組み合わせでいくアイデアを思いついた。

作詞家としての処女作「涙と雨にぬれて」は、こうして日の目を見ることになった。

「知りたくないの」はその頃、銀座のバーやクラブのホステスたちの間で評判になり、有線放送の普及とともに赤坂や新宿などにも広がって静かなブームになってきた。



そのことに気づいた藤原がA面とB面を入れ替えて発売したことで、1966年の後半から1967年にかけて大ヒットする。

私はそのとき、自分が二年前に感じたひらめきが間違いではなかったことを確信しました。あのひらめきがなかったら、歌は絶対にヒットしない、逆に言えば、そういうひらめきがあったならば、その歌は絶対にヒットする。


「涙と雨にぬれて」は裕圭子とロス・インディオス名義で1966年に発売されたが、レコードの売れ行きはまずまずといったところだった。



ところが曲の良さに気づいたビクター・レコードが、「愛して愛して愛しちゃったのよ」の大ヒットで脚光を浴びていたシャンソン歌手出身の田代美代子と、和田弘とマヒナスターズとデュエットでカヴァーしてくれたのである。
最も脂が乗っていた時期のマヒナスターズだったから、こちらは順調にヒット曲となって、作詞家・なかにし礼の時代が静かに幕を開けた。



1967年になると「知りたくないの」がブレイクしたことを皮切りに、時代の要請であったかのように仕事が舞い込み始める。
石原プロの所属で再デビューを果たす黛ジュンのために「恋のハレルヤ」を書いたら、爆発的な大ヒットになって「乙女の祈り」「霧の彼方に」と続いた。

更にはブームを巻き起こしていたグループサウンズでも、タイガーズの「花の首飾り」とテンプターズの「エメラルドの伝説」という、ライバル同士の2大バンドを手がける一方で、ゴールデンカップスには「愛する君に」「本牧ブルース」を提供するなど、なかにし礼の書く歌はヒットが途切れなく続いていった。

次から次へとひらめきが続いたことについて、なかにし礼はこう述べている。

「あれらの歌は果たして、本当に私が書いたものなのだろうか」と。
筆を執って走らせていたのはたしかに私ではありましたが、私は何か別の存在から指令を受けて書いたのではないか―――。


なかにし礼は1964(昭和39)年から昭和が終わるまでのおよそ25年間で、作詞が約3000曲、先行する5年間の訳詞1000曲を合わせると合計で4000曲の歌詞を書き、ミリオンセラーは30曲にものぼった。


(注)なかにし礼の発言は、「NHK知る楽 探究 この世界 2009年8-9月 不滅の歌謡曲 なかにし礼」からの引用です。 



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