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テンプターズの「エメラルドの伝説」が誕生したことで頂点に達するグループ・サウンズのブーム

2017.06.02

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1968年3月に発売した第2弾シングル「神様おねがい」のヒットによって、テンプターズは先行していたタイガースのライバル的なポジションを得て、熱狂的なグループ・サウンズのブームの先頭に並んだ。

そして圧倒的な人気だったタイガースの沢田研二(ジュリー)に対抗できる、アイドル的なスターになったのがヴォーカルの萩原健一、ショーケンだった。



似合わない美少年アイドル的なコスチュームを身にまとっていても、ひとたび演奏と歌が始まるとショーケンからは、なんとも言えない不良性と危険な匂いが漂ってきた。

ショーケンの爆発的な人気は主にテレビと芸能雑誌によって、日本中の女子中高生たちの間に急速に広まった。
テンプターズには女の子たちばかりでなく、男性ファンもつき始めた。

だがショーケンはそうした状況の中で、デビューした時から、いや、その前からすでに芸能界の空気に強い違和感を覚えていたようだ。

本当はデビューしたその日から、ぼくはもう一日もテンプラーズを早く解散したかった。したくもない恰好をさせられて、歌いたくもない歌を歌わせられるのがたまらなかった。


もともとタイガースもテンプターズもエレキ・ブームの中で仲間同士でバンドを始めて、ビートルズやローリングストーンズを知って夢中になったロック少年たちだ。

どちらのバンドもオリジナルの大ヒット曲が出て人気が沸騰していた時期に、ライブではローリング・ストーンズの楽曲を主要なレパートリーにしていたところは共通していた。



タイガースのファーストLPとなった『ザ・タイガース・オン・ステージ』は、1967年8月22日に大手町サンケイホールでの初リサイタル「ザ・タイガース・ア・ゴー・ゴー」のライブ盤である。

Side One
1. ダンス天国~ラ・ラ・ラ
2. タイガースのテーマ(モンキーズのテーマ)
3. ルビー・チューズデイ
4. レディ・ジェーン
5. タイム・イズ・オン・マイ・サイド
6. アズ・ティアーズ・ゴー・バイ
7. スキニー・ミニー

Side Two
1. 僕のマリー
2. シーサイド・バウンド
3. モナリザの微笑
4. ローリング・ストーンズ・メドレー
5.アイ・アンダスタンド

「ローリング・ストーンズ・メドレー」の内容は、「エヴリバディ・ニーズ・サムバディ」「ペイン・イン・マイ・ハート」「アイム・オール・ライト」である。

1969年7月25日にリリースされたテンプターズのライブ盤にも「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」と「サティスファクション」、そして「ストーンズ・メドレー」として「エブリバディ・ニーズ・サムバディ~ペイン・イン・マイ・ハート~レディー・ジェーン」が収録されている。



現在と違って当時はアマチュアで演奏活動をしながら、自分たちの音楽を作り上げていくための演奏場所や、廉価な練習スタジオなどは存在していなかった。
もちろん作品をレコーディングして発表できるようなシステムもなかった。

だから仲間内のパーティやジャズ喫茶、ディスコなどに出演して場数を踏みながら、プロの前座を務めたりすることで経験を積んで腕を磨いた。
ほとんどのバンドにとって、それが音楽活動を続けるための唯一の方法であった。

そんなバンドに価値を見出してくれるのは、人気をビジネスにすることができる芸能プロダクション、そしてレコード会社とマスコミである。

バンド活動に専念するために芸能プロダクションと契約できたバンドは、毎月の給料を保証してもらった上でジャズ喫茶やビアガーデンなどの仕事をしながら、レコード会社からプロとしてデビューするチャンスを待った。

プロダクションとしては先行投資をしてレコードを出すのだから、何よりもヒットさせることが先決とならざるを得ない。
そのためにはビートルズ以降のロック時代にふさわしい、新しいセンスを持った才能、売れる楽曲を書けるソングライターが必要になる。

1967年2月にデビューしたタイガースが作曲・すぎやまこういち、作詞・橋本淳という師弟コンビによる「僕のマリー」「シーサイド・バウンド」「モナリザの微笑」を連続ヒットさせて、驚異的な成功を打ち立てたことが、そうした流れを決定づけることになった。

タイガースはそこから誰も予測し得なかったグループ・サウンズの、熱狂的なブームを本格化させていく。



そんな動きと関係して横浜で活躍していた実力派のバンド、ザ・ゴールデン・カップスが6月にレコード・デビューを果たした。
英語でしか歌ってこなかった彼らのデビュー曲は「いとしのジザベル」、なかにし礼が作詞して、作曲と編曲を鈴木邦彦が担当したが、順当に成功を収めた。

1966年にデビューしたものの軌道に乗らなかったヴィレッジ・シンガーズも、8月に「バラ色の雲(作詞・橋本淳 作曲・筒美京平)が大ヒットした。
そして翌年2月には「亜麻色の髪の乙女(作詞・橋本淳 作曲・すぎやまこういち)が大ヒットする。

こうしてレコード会社やプロダクションによって新鮮な人材が発掘されて、その中から作詞家では橋本淳、なかにし礼、山上路夫、阿久悠、作曲家ではすぎやまこういち、鈴木邦彦、筒美京平、村井邦彦などの才能が登場してきた。
若くて才能あるソングライターが本領を発揮したからこそ、グループ・サウンズが一大ブームになったとも言えるだろう。

しかしテンプターズにはバンドの中に松崎由治というバンド・リーダーで、ソングライティングもできるメンバーがいた。
そのためにデビュー曲「忘れ得ぬ君」とセカンド・シングルの「神様お願い」は、当時にしてはめずらしく、自分たちのオリジナル楽曲で勝負していた。

そこにはバンドのメンバーたちの音楽性を認めて、才能を引き出してくれたスタッフの力が大きかった。
フィリップス・レコードの担当ディレクターだった本城和治は、グループ・サウンズのさきがけとなったスパイダースを手がけて、メンバーたちとともに海外進出を図るなどしてきた。

彼はもともとは洋楽部のディレクターだったが、旧態依然としたそれまでの歌謡曲作りとは違うアプローチで、日本の若者がほんとうに求めている音楽を作ろうと考えていた。

だからバンドのオリジナル作品を重視してくれた。
「たとえ録音に時間がかかろうとグループのメンバー全員で考えながら彼ら自身の音で演奏し、作り上げてゆく」という方法を選んだ。

本城のそうした判断が正しかったことで、テンプターズは人気グループになった。
しかしテンプターズのブレイクによってブームがさらに加熱したことから、芸能プロダクションとレコード会社による安易な作品と、商業主義一色のグループが粗製乱造される傾向も表れてくる。

そんななかで1968年6月15日、テンプターズの3rdシングル「エメラルドの伝説」が発売になった。
これが大ヒットしてヒットチャートの1位を獲得したことで、ついにグループ・サウンズのブームは頂点に達する。

しかし「エメラルドの伝説」はメンバーではなく、選りすぐりのプロによって作られた楽曲だった。

(続く)



(参考文献および引用元)萩原健一著「ショーケン」(講談社)、「グループ・サウンドのすべて」ペップ出版

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