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スティングの運命を変えた「ロクサーヌ」②~「こいつはクラシックだ。大ヒット間違いなしだぜ、おい」

2024.04.06

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ポリスの歴史は、1976年に地元のニューカッスル大学のセントメリーズ・カレッジにある大食堂で歌っていたスティングが、アメリカ人ドラマーのスチュアート・コープランドに見染められたことから始まった。

それからしばらくしてロンドンで再会した二人はセッションしたが、スティングはその時に直感したことを、自伝「スティング」にこう記している。

この男は今まで一緒に演奏した中で一番エキサイティングなドラマーだ。
いや、エキサイティングすぎるといってもいい。
同時に覚悟した。
この暴走列車は、積荷をバラバラにしてしまうくらいあっさりテンポを無視するだろう。
この暴風のなかで私がひねり出す音楽がなんであれ、それは穏やかで気の置けないものなどではなく、地獄を往来するようなワイルドなノリでしかない。


スチュワートはそのセッション後にジミ・ヘンドリックスとクリームの話を持ち出して、3人編成のバンドで一切のムダを削ぎ落としたプレーをしたいという構想を明らかにし、バンド名はポリスにするという意志表示もしている。

スチュワートはスティングに「Less Is More(レス・イズ・モア)」と話していた。

[より少ないほうがより多くを得る]、
真の芸術は、制約という条件下で即興と革新と創造的問題解決を必要とし成長する、と。


やがてフランス人ギタリストのアンリ・パドバニがメンバーに加わって、ポリスは正式にバンドとして活動を開始している。
1977年の5月にはスチュワートの兄であるマイルズ・コープランドが設立したインディーズ・レーベル、イリーガル・レコードからシングル「Fall Out」を出した。



しかし音楽週刊誌などではそこそこの評価を受けたが、売上は初回プレスの4000枚に終わった。

その頃に、プロとしての長いキャリアを持っているアンディ・サマーズと出会ったことで、彼をサポート・メンバーのギタリストに迎えたことから将来の道が開けていく。
アンリがバンドから外れることになったのは、当初にイメージしていた腕前とセンスを持つ才能が揃ったことによる必然だった。

新たな3人になったポリスは、即興と革新の音楽を目ざしてリハーサルに没頭していく。

ステイングはボブ・マーリィのレコードを聴いて、レゲエ風のベースラインを覚えるようになった。
そしてマイルズのレーベルから発売するアルバムのために、スティングはほとんどすべての楽曲を書き上げる勢いで、真剣そのものでソングライティングに取り組んだ。

6ヶ月ほどの時間をかけて、アルバム3枚分のもとになる曲が仕上がった。
マイルズはときどき様子を見に顔を出したが、パンク嗜好だったのでどちらかというと批判的なことが多かった。

3人は「ロクサーヌ」を完成させた後に「キャント・スタンド・ルージング・ユー」が出来上がって、しっかり方向性が見えてきた。
ステイングは次に「ソー・ロンリー」を書いてきて、ポリスというバンドのアイデンティティが生まれていく。


音楽に関する言い争いはあったが、それもポリスのサウンドが持つ緊張感につながっていった。
妥協しない音楽、それがポリスなのだ。

マイルズの手配で超低予算ながらも、アルバムのレコーディングが始まった。

ある晩、マイルズがスタジオに来て曲を聴きたいというので、激しいビートの曲から選んでテープをプレイバックしていった。
最後まで聴いたマイルズにスチュワートの提案で、レコーディングしたばかりの「ロクサーヌ」を聴かせることになった。

スティングとアンディはそのとき、きっと気に入ってもらえないだろうと、心の底でびくびくしながら立ち会っていた。

その心境をスティングがこう述べている。

マイルズはむっつりしたまま、身体を硬直させて足をしっかり踏ん張ったまま。
エルヴィス・コステロが聴いたら耳の辺りをひっぱたかれそうな、泣き叫ぶような甲高いテノールで、私が歌い始める。
まずい。
誰の顔も正視できない。
部屋に広がる緊張感が手に取るようだ。
最後のコーダに辿り着くまで百年はかかった気がした。


マイルズの耳たぶと首の後が真っ赤になっているのを見て、スティングは目一杯の怒りと嘲りを覚悟したという。
だが口をついて出てきた言葉は、まったく意外なものだった。

「こいつはクラシックだ。大ヒット間違いなしだぜ、おい」


マイルズはスティングをペットを可愛がるように何度も叩いて、湯気を立てるように興奮しながら「ロクサーヌ」のテープを持って、スタジオを出て行った。

自分のインディーズ・レーベルではなくメジャーのA&Mとの間で、マイルズは好条件で契約を決めてきた。
強力な販売力のあるA&Mによって、1978年4月に「ロクサーヌ」が期待のシングルとして発売されることになった。

夏にはアルバムも出せる見通しがついた。
たった1曲によって、急に展望が開けていったのだ。



しかし娼婦をテーマにした内容からBBCで放送禁止になったのがこたえてか、この時の「ロクサーヌ」はヒットすることなく終わってしまう。
メロディー・メーカー誌にはあっさり「今後を見守りたいバンド」と書かれた。

自分の耳に自信があったマイルズはあきらめず、イギリスがダメならアメリカでブレイクさせると、新たな作戦を練って敢然と実行に移していく。



(こちらも合わせてお読み下さい)
スティングの運命を変えた「ロクサーヌ」①~パリまで行ったのにライブがキャンセルされていたポリスの失望

〈引用元〉スティング (著), 東本 貢司 (翻訳)「スティング」 (小学館文庫)
〈参考文献〉アンディ・サマーズ (著), 山下理恵子(翻訳)「アンディ・サマーズ自伝 ポリス全調書」 (Pーvine books)


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