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映画『アメリカン・グラフィティ』のラストシーンから日本につながっていた「夏のクラクション」

2017.07.21

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コピーライターだった売野雅勇が作詞の仕事を始めたのは1981年からだが、その翌年に中森明菜の「少女A」が大ヒットして脚光を浴びた。
1984年には作曲家の芹澤廣明とのコンビで、チェッカーズの「涙のリクエスト」から一連のヒット曲を生み出していった。

作曲家の筒美京平から「次は、稲垣潤一くんの新曲、一緒にやらない?」とオファーを受けたのはその少し前、1983年の春で河合奈保子の「エスカレーション」をレコーディングしていた時だった。
そこで以前から自分でも気に入っていたタイトル、「夏のクラクション」を使ってストーリーを書こうとしたら、不意に映画『アメリカン・グラフィティ』のラストシーンを思い出したという。

高校時代を過ごしたカリフォルニアの田舎町(スモールタウン)を舞台に、ジョージ・ルーカス監督が青春群像劇を通してひとつの時代の終わりを描いた『アメリカン・グラフィティ』は、追憶の甘さの中に苦味を感じさせるポップミュージックの数々とともに学園映画の伝説となった。

「夏のクラクション」というタイトルは、普遍的にとは言えないまでも、一九六〇年代以降に青春を送った人たちには、ある種の詩情を感じさせる言葉のような気がする。



1973年に公開されて世界中で大ヒットした『アメリカン・グラフィティ』では、物語が設定されていた1962年という時代に合わせて、最初から最後まで古き良き時代のアメリカのクルマが走り回り、当時のヒット曲が全編にたえまなく流れていた。

そして映画のラストシーンは、生まれ育った故郷を出て東部の大学に行く主人公が、飛び立った飛行機の窓から走り去っていく白いスポーツカー、フォード・サンダーバードを見下ろして終わる。




売野は2016年に出版した著書「砂の果実 80年代歌謡曲黄金時代疾走の日々」のなかで、歌詞が誕生したときのエピソードを次のように明らかにしている。

白いクーペ、まぼろしの天使のシンボルとしての女性、無垢なる夏の終わり。遠ざかるクラクションの響きが、ガラス窓に遮られて聴こえない世界の始まり。そんなメモを書きながら、一行目から、ぼくは「夏のクラクション」を書いた。
京平先生が、「何て音楽的な詞なんだ! って思った。音楽が聴こえてくるから、そのままメロディを書けばよかった。だから、すぐにメロディをつけられたよ」とほめてくださった。


こうして出来上がった楽曲のアレンジを担当したのは、まだ20代ながらも寺尾聰の「ルビーの指環」で日本レコード大賞編曲賞を受賞し、それまでの歌謡曲とは異なる革新的な作品で注目を集めていた井上鑑である。

井上はちょうどその頃、大滝詠一が薬師丸ひろ子に提供した「探偵物語/すこしだけやさしく」を仕上げたところだった。
それは5月25日に発売されて大ヒットを記録することになる。

押しも押されゆもせぬヒットメーカーだった筒美京平は、作品によって何人もの編曲家を使い分けて仕事を依頼していた。
もっとも若かった井上には歌謡曲的なものではなく、稲垣潤一などのニューミュージック的なアプローチの楽曲が選ばれることが多かった。

研究熱心で知られる京平さんは、洋楽の新作アルバムやシングルを常にチェックしていました。それに加えて国内のチャートの動向、セールス的にビッグではなくても音楽性が注目されるアーティストなどを見逃さずに勉強されていました。
まだ初対面に近い時でも、僕の仕事に関して「あの曲のアレンジは良かった」とか「この作品のコンセプトは誰の発案?」というように具体的な指摘や質問が話題に上って驚かされたものです。


筒美京平が注目していた井上による編曲作品は、実は「売れて世間に知られた」曲とは言えないものも多かった。
プロになって間もない作詞家と編曲家は、それぞれに実力と底力を発揮はじめていた時期だった。

自分が手がけた作品で印象に残っているセッションとして、井上は稲垣潤一のデビュー曲「雨のリグレット」をあげている。
「夏のクラクション」は筒美京平のもとに集まってきた新しい才能同士が結びついて、詞曲もアレンジも会心の仕上がりとなったといえる。

海沿いのカーブを君の白いクーペ
曲がれば夏も終わる…
悪いのは僕だよ 優しすぎる女(ひと)に
甘えていたのさ
傷口に注ぐGINのようだね
胸がいたい 胸がいたい

夏のクラクション
Baby もう一度鳴らしてくれ In My Heart
夏のクラクション
あの日のように きかせてくれ
跡切れた夢を 揺り起こすように


しかし楽曲が完成しても、そこからさらに1週間もの時間が費やされる。
ヴォーカル録音のためのレコーディングが、毎日毎日、果てるともなく続いたのだ。

新しい日本のポップスを目ざしていた担当ディレクターの重実博は、稲垣潤一がデビューした時から高いレベルの作品に挑んできた。
だから心から納得がいくOKが出るまで、まったく妥協せずに可能性を追求し続けたのである。

稲垣潤一は当時の雑誌に、それこそ数え切れないほど歌ったと話している。


「詩をメロディにどう乗せていくか、ずいぶん考えたし、時間がめちゃくちゃかかっちゃった」


その結果、サビの歌詞で「夏のクラクション」という部分を、稲垣潤一は『なつのォゥォゥ~クラクション』としたという。
それは『アメリカン・グラフィティ』に使われていた60年代のオールディーズに、しばしば見られた歌い方にもつながるものだった。

1983年7月21日に発売された「夏のクラクション」は大ヒットにこそならなかったが、夏の定番ソングとして長く歌い継がれたことでスタンダードになっている。


(注)文中の売野雅勇氏の言葉は著書「砂の果実 80年代歌謡曲黄金時代疾走の日々」(朝日新聞出版)、また井上鑑氏の言葉は著書「僕の音、僕の庭 鑑式音楽アレンジ論」(筑摩書房)からの引用です。




〈関連コラム〉アメリカン・グラフィティ~あの伝説のDJが流す41曲の珠玉のオールディーズ・ナンバー

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