「本物の音楽」が持つ“繋がり”や“物語”を毎日コラム配信

TAP the POP

TAP the SONG

ロックになったRCサクセションの「上を向いて歩こう」に驚いた作詞者の永六輔

2019.06.07

Pocket
LINEで送る

1961年7月21日の夜、世界の音楽史に残るひとつの歌が東京・大手町にあったサンケイホールで誕生した。
永六輔作詞、 中村八大作・編曲、 19歳の坂本九が歌った 「上を向いて歩こう」 は、その年にレコードが発売されて大ヒットしたのみならず、 1963年6月15日には全米チャートで第1位を獲得した。
そして坂本九がうたった日本語のまま世界中でも愛聴されるという、日本のポップス史における最大の快挙を成し遂げていった。


それから15年の月日が過ぎた1978年から79年にかけて、少年時代にこの曲を聴いて育った若者たちが本格的なロック・バンドを目ざして、リハーサルを重ねていた。
その中心にいたRCサクセションの忌野清志郎は、4月に誕生日を迎えて27歳になったところだった。

生涯の朋友となる仲井戸麗市はその頃にRCサクセションに正式参加したが、ライブで取り上げた当時の気持ちをこのように語っている。

あの頃はメンバーもまだ探しつつ、自分たちの新しいステージングを考えながら……、清志郎くんもギターを持たなくなって。
パンクみたいな時代の波もあり、俺たちも長髪だったのを髪切ってとかいろんな模索しているなかで、渋谷の屋根裏っていうライブハウスがあって、そこで新しいRCが形作られていくんだけど、その当時増やしたライブレパートリーの一つが「上を向いて歩こう」だったと思う。
ある日、清志郎くんが「こんなの演ろうよ!」って始まったと思う。
〈略〉
でも坂本九さんのアレンジそのままでは演れないってことで、「ロックンロールにしよう!」ってのは、明確にあったと思う。
それで実際にアレンジして、ステージで演りだしたっていうのが始まりだった。


RCサクセションは屋根裏でのライブで「上を向いて歩こう」を演奏する前に、必ず忌野清志郎が「日本の有名なロックンロール!」と紹介するようになった。
重要なレパートリーとなった「上を向いて歩こう」は、ライブが後半にさしかかって「雨あがりの夜空に」へと続く流れで、必ず大きな盛り上がりをもたらした。

そして流動的だったメンバーが決まってきた1979年に新生RCサクセションを始動するにあたって、最初のシングル盤としてレコーディングしたのが「上を向いて歩こう」だった。

だが当時の日本、とくにロックシーンではオリジナル信仰が強かったので、日本の古い曲をカヴァーするという発想は、かなり変わっていると受けとめられた。
そのために「ステップ!」のB面曲として発売になったのだが、忌野清志郎は後にインタビューで、「ぼくはこの曲(「上を向いて歩こう」)をA面にしたかったんですけどね。強力な反対にあってB面にまわされてしまいました」と明らかにしていた。

仲井戸麗市は「上を向いて歩こう」が選ばれたポイントが、「きっと歌詞だったと思う」と語っている。

清志郎くんがチョイスした理由の一つは、素晴らしいメロディの魅力もあったんだろうけど、やっぱりポジティブな歌詞やメッセージっていうのが大きかったはず。
清志郎くんのそばにいた人間、彼を近くで見て彼の質感を知ってる俺が思うに、彼は「上を向いて歩こう」という言葉に、まずは引っかかったんじゃないかな。


step 上を向いて歩こう RCサクセション

そして1979年から80年代にかけてRCサクセションが快進撃を続けていくに連れて、「上を向いて歩こう」は新しいロック世代のアンセムになっていく。

ロックになって若者に支持されていることを知って驚いたのが、作詞者の永六輔だった。
忌野清志郎のヴォーカルもバンドのアレンジも、想像の域を越えていたのだ。

忌野君の「上を向いて歩こう」は、初めて聞いたときに、びっくりしました。エッ、これが「上を向いて歩こうかって。
かつて坂本九が歌った時も、びっくりしました。ここだけの話、初めこの歌は、三浦洸一さんにお願いしたいって八大さんに言ったの。。


永六輔はきれいな日本語で歌ってほしかったというのだが、そもそもこの曲を企画した中村八大は坂本九のために、日本語によるロックンロールを作ろうとしていたので、永六輔の希望は叶わなかった。

つぎに永六輔が驚かされたのは、全米チャートで「SUKIYAKI」が1位を獲得した時だった。
日本語の歌詞の意味がわからないにも関わらず、アメリカばかりか世界中でヒットしているのはなぜなのか?

永六輔は中村八大と一緒にアメリカまで旅行にでかけて、それを確かめたいと思ったという。
だが現地まで行ってみていくらか理解できたのは、五音階の長調で始まるメロディーが印象的であることと、サビの部分から短調の七音階に転じて、また長調に戻って終わる流れが、サウンドともどもエキゾチックに響い評判が良かったということだった。

また、坂本九のヴォーカルにはたとえ歌詞の内容がわからなくとも、悲しみや孤独を伝える歌声にキュートな魅力があって、口笛とともによく口ずさまれていたという事実もわかった。

しかし作詞者としては意味不明のタイトルと歌詞との関係について、いまひとつ要領を得ないままに終わってしまったという。
そのことから受けた永六輔が受けたショックは、決して小さくはなかっただろう。

帰国後の永六輔は歌を成立させている役割について、作曲が五、歌手が三、作詞が二の比率だと語るようになった。
そして作詞の仕事を次第にセーブするようになり、数年後には自ら作詞家からの撤退を表明したのだった。

Pocket
LINEで送る

あなたにおすすめ

関連するコラム

    関連記事が見つかりません

[TAP the SONG]の最新コラム

SNSでも配信中

Pagetop ↑

トップページへ