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石原裕次郎の「粋な別れ」に込められていた、浜口庫之助が選んだ人生への思い

2017.08.18

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浜口庫之助は1987年に52歳の若さで亡くなった石原裕次郎について、著書「ハマクラの音楽いろいろ」のなかでこのように述べている。

人間の一生には、花の部分と、実の部分と、幹と根とがあるように思う。
子どもは、みんな種で、どんぐりだ。
学生時代は小さな木だ。この辺から花をチラチラ咲かせる連中が出てくる。
裕次郎は、そのころに花を咲かせ、そのあとずうっと花として生きて、一生を終わったのだ。


1966年の年末に「星のフラメンコ」と「バラが咲いた」で第8回日本レコード大賞で作曲賞を受賞した直後、浜口は40歳になったと同時に花の時代を自ら終わりにしていた。
どうしてなのかはわからないが、「お前はもう花の時代ではない」という声が心の中から聞こえてきたのだという。

ちょうどその頃、浜口は裕次郎に頼まれてリサイタルのために2曲を書き下ろした。
それが「粋な別れ」と「夜霧よ今夜も有難う」である。

楽曲が完成したとき、裕次郎はテイチクの新橋スタジオに取材記者を呼んで、浜口にその2曲を歌ってもらうことにした。
そのときの様子を思い出して、浜口は著書にこう記していた。

ピアノでこの曲を聞かせたときは、彼は目に涙をためていた。
裕次郎君は感激する人である。そしてその感激を人に伝えることの出来る人であった。
僕も自分で作った作品を歌っていて、涙が出ることがある。感激がないとい作品は生まれない。そして生んだ作品は、人を感激させるものでなければいけない。
素晴らしい夕日を見る。美しいバラを見る。子供が頑張っている。人々が悲しみや苦しみに耐えて頑張っている。何でもいい。僕の周辺で僕を感激させるものに出会ったとき、僕は歌を産む。いや産まされる。


この曲というのはおそらく「粋な別れ」だったのではないかと考えられる。
そこには自らの「花の時代」に対する決別の思いと、体験から掴み取った浜口の人生哲学が込められていた。
まもなく2曲はシングル盤のA面、B面としてカップリングで発売になった。

ジャケットを見るとどちらも同じくらいの比重というか、同等の扱いだったことがわかる。
先にヒットしたのはA面の「夜霧よ今夜も有難う」だったが、B面の「粋な別れ」を支持するファンも多かった。



石原裕次郎の相手役として光り輝いていた女優の浅丘ルリ子もその一人で、著書でこのように歌詞を引用している。

裕次郎さんのシングルレコード「夜霧よ今夜もありがとう」のB面におさめられた「粋な別れ」にちなんだ映画にも出演しました。映画「波止場の鷹」です。裕次郎さんは裸一貫から貿易商になった健一を、私はバー「ローレライ」のマダムを演じました。

生命に終りがある
恋にも終りがくる
秋には枯葉が 小枝と別れ
夕べには太陽が 空と別れる
誰も涙なんか 流しはしない
泣かないで 泣かないで
粋な別れをしようぜ(作詞作曲・浜口庫之助)


「夜霧よ今夜もありがとう」、「粋な別れ」の歌も、もちろん映画も大好きです。




浜口は少年時代から青年期にかけて学生バンドで活躍していたが、日本の国が起こした戦争によって運命を翻弄されている。
中学生の頃からギターにとりつかれて、米国に渡ってジャズをやろうと心に決めたが、中国との戦争が始まって渡米できなくなった。
気落ちして神戸製鋼に入社したものの、学歴がないと仕事に差がつくことがわかり、退社して4年遅れで青山学院大学に入学した。

学生時代はバンドを作ってハワイアンやジャズを歌って演奏して人気があったが、太平洋戦争が開戦すると敵性音楽はやりにくくなり、1942(昭和17)年に青山学院大学を繰り上げ卒業して南国産業に入社する。

そして実業界で身を立てるつもりで、ジャワ島へと赴任したのだが、社員が次々に兵隊にとられたために農園の経営をしていた。
日本が敗戦して連合国軍の捕虜となって収容所に入れられた後、1946年の5月に生き残って引き揚げて来ることができた。

それからは学生時代の仲間たちに誘われて進駐軍のキャンプで歌うようになり、復興が進んでからはラテンバンドの「アフロクバーノ」を結成する。
マンボの流行に乗って人気が上昇、NHKの紅白歌合戦にも3年連続で出場するほどになった。

しかしなにか物足りないという思いを、心の底に持ち続けていた。
そして自分が本当に歌いたい歌がないことに気づいて、日本語の曲を自らつくるしかないと決断、思い切ってバンドを解散して作曲家になる。

そのとき年齢は40歳を越えていたが、収入がまったくなくなった。
「ジャズ歌いが曲なんか書けるものか」という偏見の目も根強く、妻ともうまくいかなくなって別居した。

いくら作っても「いい曲だな」と言われるだけで、なかなかヒットには結びつかなかった。

「黄色いサクランボ」が大ヒットしたのは1959年のことで、安保反対運動で国中が騒然としていた時代にさしかかっていた。

ちょうどその頃、新人歌手の守屋浩が「練監ブルース」をめぐって起きた発売禁止騒ぎで、ヒットしていた「檻のなかの野郎たち」を歌えない状態になった。
そこで「僕は泣いちっち」を提供すると大ヒットし、浜口は作曲家としてようやく軌道に乗った。

僕は四十歳で花から実りの時代を感じ、舞台人としての役割を極力捨てていった。脱皮しようとした。お陰様で静かな人生が得られ、歌という小さな実をぽーっとつけることが出来た。これからももうしばらく、実をつくる人生を送りたいなと思っている。


浜口は「実をつくる仕事というのは、必ずしも、その実を自分で収穫できるとは限らない」とも述べている。
収穫は次の世代がするという場合が多いと考えて、彼は生命力のある歌を作ることに心血を注いでいく。

自分の仕事は根の仕事、花を咲かせ、実を実らせ、目立たず黙々と生きる道を選んだのである。




(注)文中の浜口庫之助氏の言葉は著書「ハマクラの音楽色いいろ」(朝日新聞社)、浅丘ルリ子さんの言葉は「咲きつづける」 (ゆうゆうBOOKS)からの引用です。

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