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19歳の山口百恵が「私自身に近いところで歌が呼吸していた」と書いた「プレイバックPartⅡ」

2017.10.20

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オーディション番組『スター誕生!』で1972年に見出された山口百恵は、翌年5月に「青い果実」で歌手としてデビューした。

彼女がいわゆる「青い性」路線と言われた楽曲を歌うアイドルから大きく飛躍し、女優としての演技力と表現力を発揮し始めたのは、1974年10月から始まった大映テレビ制作による連続テレビドラマ『赤い迷路』がきっかけとなった。

これが評判になってシリーズ化される一方で、12月には初主演となる映画『伊豆の踊子』が公開されて、スクリーンでも存在感を放つようになっていく。

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彼女が所属するホリプロダクションの傘下にある音楽制作会社、東京音楽出版の原盤制作ディレクターとして井上陽水を手がけていた川瀬泰雄が、新たにスタッフに加わった5枚目のシングル「ひと夏の経験」は、1974年6月にヒットチャートで3位まで上昇して初のベストテン入りとなった。

そして6枚目の「ちっぽけな感傷」も3位にランクインし、12月にリリースされた7枚目のシングル「冬の色」では、とうとうチャート1位を獲得した。

しかし一度ピークをきわめると、それまでの路線には少しづつ閉塞感のようなものが立ち込めて、新しい方向性を打ち出す必要が出てきた。
そのとき、ニューミュージックやロック系のアーティストに楽曲を依頼することが検討されたが、井上陽水や矢沢永吉、中島みゆきらの名前が候補に挙がったという。

その中にはダウン・タウン・ブギ・ウギ・バンドを率いて「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」のヒットを放っていた宇崎竜童と、夫人で作詞家の阿木耀子の名前もあった。
そんな時に川瀬は山口百恵本人から、「宇崎さんの歌をうたってみたい」と言われたのである。

〈参照コラム〉山口百恵の歌手としての人生が変わっていくきっかけになった「涙のシークレットラブ」
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そこから「横須賀ストーリー」という代表曲が生まれて、山口百恵は本当の自分の歌と出会うことになった。
川瀬は著書のなかで、「阿木さん宇崎氏との出会いが、歌手としての百恵をいっそう成長させた」と述べている。

百恵自身が、デビューから徐々に成長していくにしたがって、男性の作詞家が描く少女心理の世界に、百恵は没入することが、だんだん困難になってきたのだろう。そこへ阿木さんの登場である。
(川瀬泰雄著『プレイバック 制作ディレクター回想記 音楽「山口百恵」全軌跡』Gakken)


とくに阿木耀子の書く無垢な少女のイメージは、生きて呼吸している彼女自身と見事に重なるものだった。
彼女はそのことについて、引退して結婚した後に三浦百恵として文章に書き記している。

阿木さんの詩を宇崎さんのメロディにのせて歌う時だけが、本気になれた。
歌うというよりも、もっと私自身に近いところで歌が呼吸していた。
思えば阿木さんの詩を歌い始めた頃から、実生活での私の恋も始まったのだけれども、阿木さんの詩の中に書かれた言葉が、私に恋という感情のさまざまな波模様を教えてくれたようにも思う。
恋をする中で感じた思いを、詩の中に言葉として見つけだしていた。
詩の中から、言葉で飛び込んできた感情が、今度は現実の恋の間(はざま)に見えかくれしていた。
阿木さんの詩は、そうして私の心の奥深くまで染み込んで行った。
(阿木耀子『プレイバックPartⅢ』新潮文庫 所収 三浦百恵による「解説」より)


宇崎竜童=阿木燿子コンビによる作品と山口百恵の相性はきわめて良く、「夢先案内人」、「イミテーション・ゴールド」、「乙女座 宮」とヒット曲が続いた。

阿木耀子は1978年に「プレイバックPartⅡ」を作詞したとき、歌のなかに2箇所出てくる科白(せりふ)めいたフレーズを、上手く歌い分けてほしいと思っていたという。
しかし完ぺきを求めるあまり、作品作りに時間がかかってしまい、楽曲が完成してデモ・テープが出来上がったのは、レコーディングの日の明け方だった。

そのデモテープを萩田光雄が昼までにアレンジし、カラオケを録音してから山口百恵の歌を吹き込み、さらにミックスを終わらせて、夜中までに工場へマスターテープを納品しないと発売日に間に合わなくなる。

そんな切迫したぎりぎりの状況で、多忙をきわめていた山口百恵はテレビの収録からスタジオに駆けつけると、聴いたばかりのデモ・テープを頼りにヴォーカルを録り始めた。

科白めいたフレーズを打ち合わせる時間もなく、阿木耀子は始まった歌録りを聴くことになった。
最初に歌ったテイクをプレイバックしたときの印象を、阿木耀子は著書のなかでこう述べている。

 

私は百恵さんのプレイバックの声を、スタジオのミキサールームのあのスピーカーで聴けたことを、とても幸福に思う。
 最初を十八歳で、次を三十歳で歌い分けてほしいと言うより前に、モニター用のスピーカーから流れてくる声はまさしくそうなっていた。
「バカにしないでよ」
「馬鹿にしないでよー」
 十八歳の百恵さんの中に、確かにしたたかな大人の女が透けて見えた時、本当に凄(すご)いなと思った。
(阿木耀子『プレイバックPartⅢ』新潮文庫)


ほかには誰も歌いこなすことができないような歌詞、そしていろいろな含みのあるフレーズを、山口百恵は吐きすてるかのように歌った。
こうして「プレイバックPartⅡ」は歌詞とメロディー、サウンドとヴォーカル、そして台詞までがひとつになってドラマティックな表現に昇華した。

これを10代で自然にやれたということが、山口百恵の持つ比類のない凄みだった。

この「プレイバックPart2」で山口百恵は史上最年少の19歳にして、『NHK紅白歌合戦』(1978年)で紅組のトリを務めている。


(注)本コラムは2016年9月24日に公開した『〈吐きすて〉の歌の系譜⑤=19歳の山口百恵が放った本気のフレーズ~「馬鹿にしないでよ そっちのせいよ」』を、改題して加筆したものです。

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