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ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画「ヴェニスに死す」から題材を得て誕生した中森明菜の「少女A」

2018.04.20

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中森明菜のセカンド・シングルとして「少女A」が世に出て注目を集めたのは、1982年7月28日のことだった。
広告業界でコピーライターとして働きながら作詞の仕事を始めた売野雅勇は、まだ駆け出しの身であったが、アンテナ感度の鋭い大瀧詠一などから注目を集めていた。

同じ年の2月に発売された『機動戦士ガンダムⅢ』 の主題歌「めぐりあい」は、売野の才能にいち早く気づいた作曲家の井上忠夫が自分で歌って、初のヒットをもたらしてくれた。

売野はその頃に作詞家として契約していた事務所で、スタッフから1枚のチラシを渡されてこう言われた。

「ともかく目立つものを書いて下さい。前に書いた、シャネルズだって、河合夕子だって、普通じゃないですから。自分が面白がって書いたら、いい作品になると思います」


ワーナー・パイオニアが力を入れて売り出していた新人の中森明菜は16歳、売野はひとまずコンペ用に作品を書いてみることにした。

そのチラシに書いてあった「ちょっとHな美新人っ娘」というキャッチフレーズには、「美新人っ娘」のところに「ミルキーっこ」とルビがふってあった。
美新人=「ミルーキー」というシャレだったらしいが、売野はそんなことにまったく気がつかずにいたという。

それよりも「ちょっとH」のほうに目がいったのは、16歳の新人歌手がセクシーなムードを持っていてもいいのではないか、そう思いめぐらしているうちに具体的なイメージが浮かんできたからである。

もやもやとしたものが、形を結ぼうとしていた。セクシュアルで16歳。自分の高校のころの、まわりにいた女の子たちを想像した。同時にシノハラヨウコという、十六ではなく、浅黒い肌をした早熟な十四歳の美少女を思い出した。


「早熟」というキーワードを見つけた売野はその美少女に誘惑された自らの体験から、”あやうさ”を持っていた彼女がニュースになるかもしれないと、可能性について考えてみた。
そして新聞の社会面では匿名で報道されると想像し、マジックインキで原稿用紙に大きく「少女A(16)」と書いた。
その時点でタイトルは決まったと確信したが、なかなか歌詞を書き出せなかった。

売野は著書「砂の果実 80年代歌謡曲黄金時代疾走の日々」のあとがきで、作詞家としての礎となったこの作品について、このように述懐している。

ストーリーのアイデアがまるで浮かばず、悶々として少女A 、少女A と原稿用紙に書き連ね、途方に暮れた。しかし、これほどまでに書けないのは、タイトルの大きさを自分で知ってるからだと思う。鉱脈の上に立っていることを無意識に感じて、緊張していたのかもしれない。
締切の二日前、もう書き出さなくては間に合わないので、これ以上考えるのはやめて、ぼくはズルをすることにした。下書き用のノートに残っていた、沢田研二さん用の「ロリータ」の設定を借りることを、苦しまぎれに思いついたのだ。


売野はその年に渡辺音楽出版のプロデューサーから、沢田研二のシングル曲に詞先で書かせてもらうというチャンスを与えられていた。
そこで挑んだのが「ロリータ」という、少女愛をテーマにした歌詞だった。

ウラジミール・ナボコフの小説「ロリータ」は中年の詩人ハンバートによる12歳の少女ロリータへの愛を描いた問題作で、1958年にアメリカで出版されてベストセラーになった。

ナボコフ本人の脚本でスタンリー・キューブリックが監督した映画『ロリータ』が1962年に世界中で公開されたこともあって、ロリータという単語は世界に広まり、日本ではロリータ・コンプレックスという和製英語がロリコンとして一般化している。

ロリータになれる少女とは、格別に美しいことに加えて、蠱惑的であることが必要になる。
そのうえで、ときおり見え隠れする挑発性と、それにともなう危険な香りが漂っていなければならない。

ただし、売野が書いた歌詞の「ロリータ」はナボコフの小説からではなく、トーマス・マンの小説「ヴェニスに死す」に題材を得ていた。
創作活動に疲れた作家のアッシェンバッハは、足を向けたヴェネツィアのホテルで、長期滞在している上流階級のポーランド人一家の息子、10代初めと思われるタジオの美しさに魅せられていく。

ただただ美貌のタジオを見つめるだけという、不器用な愛情表現しかできないアッシェンバッハが、次第に命の輝きを失って死んでいく物語は、トーマス・マンの友人だった作曲家のグスタフ・マーラーがモデルだった。

イタリアのルキノ・ヴィスコンティ監督が1971年に映画化した『ヴェニスに死す』は、小説では作家となっていた主人公を作曲家にして描いた文芸作品である。




沢田研二をアッシェンバッハに設定した売野は、美少年のタジオを美少女に置き換えて、中年にさしかかった男性が思い焦がれる歌詞を書いた。
しかし当時はまだ、そのアイデアを歌詞として完成させるだけの力量がなかったという。
だから中途半端な作品にとどまり、採用されずに終わったのだった。

そこで売野はアッシェンバッハの視点からだった歌詞を、逆に美少女の目線で書き直すことにした。

そこからいくつもの紆余曲折を経て、「少女A 」は芹澤廣明の作曲によって完成する。
タイトルからしてそれまでの歌謡曲にはない斬新な表現であるが、さらに萩田光雄の力強くも鮮やかなアレンジを得て、間違いなくヒットを予感させる作品に仕上がった。

しかし中森明菜は当初、この楽曲を歌いたがらなかったという。
だが「レコーディングで1回歌うだけでいいよ」と、マネージャーが説得して歌が吹き込まれた。

さらにはアルバムの中の1曲だったはずが、仕上がりの良さから急きょ、シングルのA面に抜擢されるという展開になった。


聴くものをドキドキさせる歌詞とセンセーショナルな内容だったことで、「少女A」は音楽シーンのみならず社会的な広がりもみせて、一般の週刊誌などにも論評が載るほどだった。
しかし売野にとって最も印象的だったのは、評論家の言葉や解説ではなく、朝日新聞の「声」の欄に投書された女子高校生の言葉であった。

「私は不良でもないし学校ではクラス委員もしていて他人からは優等生と思われてるけど、『少女A』を聴いたときに、これは自分の歌だと思った。私だけが知っている、本当の自分のことを歌ってくれた歌だと思った。これを不良少女の歌だと考えるのは自由だけれど、間違いだと思う。私のような”少女A”が生きていることもわかってほしい」


売野はそれを読んで、泣きたいくらい感動したという。

ほんとに書いてよかったと思えた瞬間でした。彼女の論も鋭いし、こんなふうに波及するんだと驚いたんです。僕が書いた歌詞だけど、もうその瞬間は、彼女のものになってる。それって素晴らしいことですよ。大衆音楽、ポピュラー・ミュージックの本質にいきなり触れた気がしました。


時代を変えるほどのインパクトを持つ歌謡曲の奥には、重層的かつ複合的な文化とともに、知られざるいくつもの物語が潜んでいる。


(注)文中の売野雅勇氏の言葉は著書「砂の果実 80年代歌謡曲黄金時代疾走の日々」(朝日新聞出版)からの引用です。
なお最後の発言は2016年12月11日に公開された「Real Sound|リアルサウンド」における下記のインタビューの引用です。
『砂の果実 80年代歌謡曲黄金時代疾走の日々』出版記念インタビュー「少女A」を生んだ作詞家・売野雅勇に訊く、キャリアの転機と“昭和歌謡リバイバル”


売野雅勇『砂の果実 80年代歌謡曲黄金時代疾走の日々』(単行本)
朝日新聞出版

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